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2019年1月

人生100年の時代 ~新春 華やかな明治座 【由紀さおり座長公演】~

新春 華やかな明治座
【由紀さおり座長公演】の観劇に
出かけました
ひらさわの御得意様 多勢さま方の
お洒落な魅力いっぱいの きもの姿が
素敵でした

「芸能生活五十周年」由紀さおりさんの
明るい人柄そのままに 華麗な舞台
歌に トークに 絶好調超とも言うべき
満開の桜のような 由紀さおりさん
皆さんが うきうきと 弾み うっとりと
酔いしれた 一夕でした

終演後 胡蝶蘭ずらりを背景に
由紀さんとの写真撮り手短な会話の中で
私は『あちらが 信州白馬の方』
『あちらが 群馬 熊谷の方』と
ご紹介をして
ついでに自分を指さして
『天国への階段踊り場の人』と言ったら
由紀さんにピシャリ
肩を叩かれて「ダーメヨ」と
シカラレタ~~~
「ウンそうだ 来年も舞台を観に来よう」

Photo


93才迄きものひらさわの現役
18年前に亡くなった母が
着物の柄選び際に言っていた
「人生わずか50年は昔の事
当節は人生80才ですから
御年令は6割引になさいませ」


モダンダンスの【山田奈々子さん】
昭和30年代 青春トップスター
山田真二のお姉さま
女性の年令は 言わない聞かないが
山田真二は私の級友親友である

奈々子さんは 改元10連休に 招かれて
渡米 ワークショップ&舞台で
踊られるそうだ

Photo_2


過って60数年前奈々子さんは
当時の鉄のカーテンをくぐり
世界平和青年友好祭で踊った
~東京から新潟迄約一日がかりの時代~
新潟から船でナホトカ迄一日半
ナホトカからシベリア鉄道乗り放しの
14日間 ポーランドで やっと
ホテル一泊だったが(ベットでも
座席スタイルで寝た?トカ)
ポーランドからオーストリア迄一日半
まさに“隔世の感”

ひたむきに踊り続けて
これからも踊り続けて 生かれるだろう

いみじくも 人生100年の時代
到来のようである

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迷惑客万来

半世紀以上前 仲の良い高校時代の
旧友の家を訪れた
勝手知ったる他人の家で 一階が事務所
二階が住まいの玄関を開けて
ズカズカ入り込むと 夫婦喧嘩の
真っ最中だった
「くだらないヤキモチ妬くな」VS
「男らしくちゃんと白状すれば!」と
ヒートアップしていた
『ナニナニどうしたの?』と私が
割って入ると
同時に数枚の便箋と封筒が目の前に
叩きつけられた
『ナニナニ ナンダヨ』とキンキン声と
ドスの効いた声で喧嘩の原因が
その封筒にあることが判明した

便箋を読み始めると
“あなたと別れて◯年目 思い出すと
胸が痛く甘く切なくなります…”と
何やら出来の悪い美文調で
恋文のようであった

…………………………………………

受け取った亭主殿は
「そんな女は知らない」と
封筒の裏を見てニベもない
「タノシクスゴシタ林の中 … これ何よ」と
女房殿
双方の怒鳴り声とキンキン声の
空中戦の真下で数枚の手紙の最終を
読んで私は吹き出した
亭主殿女房殿 呆気にとられて
私の顔を見つめた
一番最後の便箋に大きく書かれた文字を
2人に見せた
衆議院議員選挙には是非竹入義勝を
よろしくお願いします
繰り返し二行書かれてあった
封筒の裏に書かれた氏名は
嫁に行って名字が変更になった
『アイツだよ』で一件落着とは
直ちにならなかった
旧友夫婦のフクレッ面はしばし続いていた
後日 平澤建二クンの元へも同じ文章の
手紙が届いた

3年前のことである 店に呼ばれて出ると
見知らぬ中年の男性が「しばらくです」
「お久しぶりです」とトントントンと挨拶
さらに「お宅でご馳走になった鰻の味が
忘れられません」
『??』 私80才過ぎ少々認知症で
チグハグな応答で判明してきた
来客は昭和の時代我が家で
お見合いの席を取り持った都下某市の
(当時)若主人と判明
結論がトントントンと一方的に出てきた
都議会議員選挙には
◯◯◯◯をお願いします
鰻の話も何十年ぶりの訪問も
「都議選◯◯◯◯」がオールだった

今年は統一地方選挙
参院選挙の当たり年
メイワク客多々が応対できない一年に
なりそうだ

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昭和の時代の人いきれ ~ 歴史の転換点に想う ~

年の暮の慌ただしさ 新年の賑わい
人いきれする慌ただしさ 
人いきれする賑わい
昭和の頃の【人いきれ】
どこかへか消えた 
シブヤ スクランブルに 乱雑はあるが
人いきれは無い
テレビに ガサツと猥雑はあるが
人いきれの ぬくもりは無い
 
旧冬【12月8日大東亜戦争開戦記念日】
ブログを書きかけで体調が悪化 越年した
酷い咳だが 熱がやや下がり
喉の痛みも薄らぎ 今日は1月6日だ

【昭和16年12月8日】当時数え7才の私に
その日の記憶は ほぼ無いのだが
【12月8日開戦記念日】
とり付かれたように思いついて
調べまくったのが 中学三年
当時私は 登校拒否中で
暇ありの時間だった
聞取りの近所のオジサン達も
記憶に新しい出来事歴史でもあるので
懇切に教えてくれた

【真珠湾攻撃】
「ニイタカヤマノボレ」
【奇襲攻撃】「宣戦布告」 聞けば聞くほど
何とも合点の行かぬ
整合性の無いデキゴト連動の頻発である

開戦時 立役者とでも言うべき
三方がおられる
開戦宣言は【昭和天皇】詔勅により
万世一系皇祖皇宗の名に於いてと
開戦を宣せられた
開戦実務は【東条英機】内閣によって
執り行われ
主要閣僚に【岸信介】商工大臣
(安倍晋三の祖父)がいた

開戦宣言の昭和天皇は
英姿颯爽白馬に乗る
陸海空三軍の長として臣民=国民に
君臨した
開戦主導の東条英機は軍陣訓
「死して虜囚の辱めを受けるな」と
兵士に刷り込んだ
開戦時閣僚の岸信介は
戦犯として捕らえられたが
東京裁判死刑囚の処刑後 釈放された

開戦時立役者が 敗戦後日本を舞台に
どう立ち回れたのか
昭和から平成 平成から次の場面への
転換を前に 検証すべきが
多々あるのではないか

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