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「死なばもろともよ」がわが家の合い言葉。

昭和20年3月9日深夜
「警戒警報発令」で母に揺り起こされた。

当時10歳の私は防空壕に入ると

ひどい喘息発作を起こすので、

母は2歳の妹を背負い、私と妹8歳、

弟7歳の左手を紐で縛って繋ぎ、

いつもの口癖「死なばもろともよ」を

強く言った。

「防空頭巾の紐っ」「水筒っ」「手拭いっ」

「ズック(靴)」と母が点検、

「死なばもろともよ」を2度3度繰り返し、

店の片隅の土壁に母子5人が

肩を寄せ合って座ると直後に

「空襲警報発令」がされた。


低空飛行のB29爆撃機大編隊が飛来、
恐怖の大爆音だった。
真っ昼間のような照明弾破裂。
ドギモを抜かれ震えた。爆弾投下炸裂、
低空飛行襲来轟音、焼夷弾、
続いて油脂グリスのバラマキ炎上。
それが身体衣服にへばりつく―――
死後も顔面が燃え続けていた―――。
起ち上がり、走り出そうとする私たちを
母は「ダメッ」「ダメッ」「水筒! 水っ」と
叫び水を飲ませ、まだまだと励ました。
店前の十字路は避難の人々が右往左往、
混乱極限だ。大風呂敷包みを背負い
逃げ惑う人々に、直前の交番から巡査が
出て来て「荷を捨てて逃げろ」と
サーベルで風呂敷包みを
叩いて回っている。
直後、低空飛行、機銃掃射バリバリバリ、
バリバリバリ。大火災が渦巻き、
火の粉が飛んで、母の背中の
妹の泣き声が「キキー、キィーッ」と
悲鳴に変わった。

母の紐を引く合図で起ち上がり
「手拭い、口にっ」の指示で
外に飛び出た。
パラパラっと火の粉が飛び、
百数十メートル近くに大火災が
迫っていた。バリバリバリ、バリッ。
機銃掃射に再び屋内に逃げうずくまり、
妹弟と3人震えながら抱き合った。
暫くしてB29爆撃機の音が消えて、外で
大勢の人声がどよめくように聞こえた。

「おかみサン、おかみサン!」という
交番巡査の声かけで屋外へ出ると、
烈風の方向が変わり、
火の手が逆向きになった。

数十メートル先は焼け野原、焼け跡が
果てしなく続き、人々が立ちすくんでいた。
2キロ離れた祖母の酒屋が全焼し、
一家4人がわが家へ避難してきた。
「親戚2人が焼死」の報せに、祖母は
「女子ども、年寄りを空から打ち殺すなんて
惨い。アメ公は鬼畜生だ」と
身体を震わせて慟哭した。

平澤建二
(昭和10年生まれ 83歳・東京都)

通販生活2018年盛夏号
―戦争を知らない世代への伝言。―より

20180804_19
昭和19年秋 激しさを増した戦時下で
隣組の相互密告監視体制が強固になった
その秋 「女中禁止令」が出て父は徴用に
召集された
我家では身重な母一人が
幼い私たち4人を守って暮らしていた
翌20年2月初め
栄養不良のまま未熟児を出産
一週間後に死亡させた
母は涙を拭く暇もなくひとり必死に
4人の子育て 商い 家事の全てをこなす
激務の中にあって 3月9日
悲惨な東京大空襲に遭遇したのだった
 

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