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2018年8月

73回目の敗戦の日 ~ 戦中戦後の想い ~

8月15日 平成最後の全国戦没者追悼式
天皇皇后両陛下 御臨席で執り行われた
天皇陛下は 平和への想いを
【四つの日】に託し
大事にされて来たとのことだ
8月15日「終戦の日」
6月23日「沖縄慰霊の日」
8月6日「広島原爆の日」
8月9日「長崎原爆の日」……
『東京大空襲の日』3月9~10日は
御存念に無いようだ

昭和20年3月9日夜~10日未明の
東京大空襲
アメリカ空軍により虐殺された焼死者は
ほぼ全員が今日で言う非戦闘員
10万余人が殺戮され……
生き残りの大人達に衝撃だった
更にの衝撃は 大人達のひそひそ話で
畏くも聖上大元帥陛下が
瓦礫の焼け跡を徒歩で御行幸との
噂話には驚愕した……
軍国少年の私は「ウソだ嘘だ絶対嘘だ」と
抗がった

白馬に打ち跨る雄姿
陸海空三軍の長 大元帥天皇陛下が
徒歩アルイテの爆撃跡の行幸等
有り得ぬ作り話だと頑強に大人達に
反抗した……

国民学校では毎朝登校時に
全員校門直近奉安殿に向う
天皇皇后両陛下の御写真が
内蔵されてあり 一人づつ直立不動
最敬礼後 教室に向い 教室では
先生の入室と同時に 級長が
『起立っ 礼っ』の号令後起立のまま
『私達ハ天皇陛下ノ赤子(せきし)デス』と
大声での斉唱が 毎朝 授業開始の
鉄則だった……
神国日本:萬世一系天皇陛下:
敵米英撃滅:一億火の玉:と
私は刷り込まれていた

歴史に「もしも」は無いと謂うが
三月九・十日東京大空襲で
アメリカ空軍と対峙した日本軍
非力を正確に把握認識し
戦争継続「否」との 正鵠の姿勢が
執られていたなれば
沖縄:広島:長崎:次々の無惨な死
悲痛な死が 起こり得なかったものをと
痛惜に思う

【十殺講話】
近衛吉田の和平:軍部の虚妄の
対峙に際して軍部傾耳は
返す返すも残念だ
然も【東京大空襲】10万余人虐殺死者が
次代に埒外で記憶に残らぬとすれば
浮かばれぬ

繰り返しだが 年寄り 女 子供のみが
暮らす東京下町へ B29爆撃機大編隊
低空飛来【照明弾】でおびき出し
爆弾投下炸裂で爆殺
油脂グリス焼夷弾で 死後迄も焼く殺戮
更には 死者生者へ区別なく無差別射撃
まさに偏執狂か嗜虐性癖かとも思える
指揮官がカーチスルメイ将軍だった

あろうことか戦後 佐藤内閣が
航空自衛隊育成の功に依るとして
カーチスルメイ将軍に
「勲一等旭日大綬章」を贈っているが
私はこれを国辱と考える
以来 半世紀後の現今
勲章返還を主張する国会議員
皆無である

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73回目の敗戦の日 ~ 東京大空襲 ~

灼けるような陽ざし 碧い空
73年前の8月15日 敗戦の日だ
大日本帝国は まさに叩きのめされて
無条件降伏 ポツダム宣言受諾
戦いに負けた
「終戦」では無く「敗戦」なのだが
負け戦を「終戦」と言いつくろって
自省が無い 
一国の興廃 歴史の真実に目を背け
 「体裁」と「格好」付け“言い訳”
“言い逃れ”
敗戦を終戦と表現する悪癖体質が
現今政治の ウソツキ ゴマカシの淵源と
私は考える

8月15日 昭和天皇の玉音放送
著名な一節がある 
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ
以ッテ萬世ノ為ニ 太平ヲ開カント欲ス」
この文言に軍国少年の私は疑念を持った
萬世に続く二字が伏せられているとの
直観は 今も同じだ
「萬世一系」は四字熟語
萬世一系は天皇家の前置詞枕詞でも
あるのだ

8月15日 本年も 
天皇皇后両陛下御臨席で
全国戦没者追悼式が 執り行われた
戦死者310万人と言われるが
その内 約40%以上が 
餓死と病死との推計がある
戦いに赴いた戦地で武器に依らぬ死
【餓死 マラリァ等の病死】は
悲痛な惨劇だ
しかも 餓死病死の大半は
下級兵士なのだとは 言うべく言葉もない

8月15日正午
全国戦没者追悼黙祷の合図だが
私は わだかまりが有り 黙祷しない
戦後73年だが
【73年前の3月9日東大空襲】の
死者犠牲者への慰謝鎮魂が未だしであり
司法 政治 行政から
全て見捨てられたままだ
東京大空襲被害者訴訟に
裁判所はほぼ門前払い
その判決は被害者に泥水を浴びせる如き
不快な屁理屈 曰く
「東京大空襲被害者は
国との雇用関係が無かった」の論旨が
あった

ならば問いたい
明治憲法下の大日本帝国旧軍人への
恩給61兆円支給に付いては
新憲法下の日本国は軍事不保持であり
軍人恩給支払いは違法なのではないか

旧軍人を祀るべくは 千鳥ヶ淵戦没者墓苑
異論はあるが靖国神社がある
東京大空襲死者御霊は
関東大震災の震災記念堂に在る 
東京大空襲死者御霊は
自然災害死者御霊と
同居させられているのだ


(つづく)



*敗戦の翌年 復員兵の隣家
フクチの小父さんに話を聞いた
「自分も傷つき餓死寸前の時
戦死した戦友の死体に沸いた
ウジ虫を食べた……」 
数日間私は思い出しては 震えた*

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「死なばもろともよ」がわが家の合い言葉。

昭和20年3月9日深夜
「警戒警報発令」で母に揺り起こされた。

当時10歳の私は防空壕に入ると

ひどい喘息発作を起こすので、

母は2歳の妹を背負い、私と妹8歳、

弟7歳の左手を紐で縛って繋ぎ、

いつもの口癖「死なばもろともよ」を

強く言った。

「防空頭巾の紐っ」「水筒っ」「手拭いっ」

「ズック(靴)」と母が点検、

「死なばもろともよ」を2度3度繰り返し、

店の片隅の土壁に母子5人が

肩を寄せ合って座ると直後に

「空襲警報発令」がされた。


低空飛行のB29爆撃機大編隊が飛来、
恐怖の大爆音だった。
真っ昼間のような照明弾破裂。
ドギモを抜かれ震えた。爆弾投下炸裂、
低空飛行襲来轟音、焼夷弾、
続いて油脂グリスのバラマキ炎上。
それが身体衣服にへばりつく―――
死後も顔面が燃え続けていた―――。
起ち上がり、走り出そうとする私たちを
母は「ダメッ」「ダメッ」「水筒! 水っ」と
叫び水を飲ませ、まだまだと励ました。
店前の十字路は避難の人々が右往左往、
混乱極限だ。大風呂敷包みを背負い
逃げ惑う人々に、直前の交番から巡査が
出て来て「荷を捨てて逃げろ」と
サーベルで風呂敷包みを
叩いて回っている。
直後、低空飛行、機銃掃射バリバリバリ、
バリバリバリ。大火災が渦巻き、
火の粉が飛んで、母の背中の
妹の泣き声が「キキー、キィーッ」と
悲鳴に変わった。

母の紐を引く合図で起ち上がり
「手拭い、口にっ」の指示で
外に飛び出た。
パラパラっと火の粉が飛び、
百数十メートル近くに大火災が
迫っていた。バリバリバリ、バリッ。
機銃掃射に再び屋内に逃げうずくまり、
妹弟と3人震えながら抱き合った。
暫くしてB29爆撃機の音が消えて、外で
大勢の人声がどよめくように聞こえた。

「おかみサン、おかみサン!」という
交番巡査の声かけで屋外へ出ると、
烈風の方向が変わり、
火の手が逆向きになった。

数十メートル先は焼け野原、焼け跡が
果てしなく続き、人々が立ちすくんでいた。
2キロ離れた祖母の酒屋が全焼し、
一家4人がわが家へ避難してきた。
「親戚2人が焼死」の報せに、祖母は
「女子ども、年寄りを空から打ち殺すなんて
惨い。アメ公は鬼畜生だ」と
身体を震わせて慟哭した。

平澤建二
(昭和10年生まれ 83歳・東京都)

通販生活2018年盛夏号
―戦争を知らない世代への伝言。―より

20180804_19
昭和19年秋 激しさを増した戦時下で
隣組の相互密告監視体制が強固になった
その秋 「女中禁止令」が出て父は徴用に
召集された
我家では身重な母一人が
幼い私たち4人を守って暮らしていた
翌20年2月初め
栄養不良のまま未熟児を出産
一週間後に死亡させた
母は涙を拭く暇もなくひとり必死に
4人の子育て 商い 家事の全てをこなす
激務の中にあって 3月9日
悲惨な東京大空襲に遭遇したのだった
 

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