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【ライオン看板 敗戦後復興の証】③ ~ 虱っ子 シラミっ子 ~

東京都内屈指の神社 国宝根津権現
宮司内海様 お一人で御来訪頂いた
何かなと瞬時の思案「ライオン看板
修築御祝い」とのご挨拶に胸溢れた
きもの展示室で畳にきちり正座され
歓談 爽やかに二時間余 至福の時
幼時五才の【東京大空襲】で社殿の
青白い炎の恐怖今も鮮明と語られた 

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太平洋戦争 日本人戦死310万余人 
悲惨はその内 餓死140万の人数だ
ネズミを食べた ミミズも食べた
「生きて 虜囚の辱めを受けるな」
生きて捕虜になるな死ね帝国軍人教育が
悲惨な餓死へ強制の道でもあった 
国民学校4年生軍国少年だった私も
【決死報国】を 幼い脳裏に刻んでいた
集団疎開強制命令で 長野県へ移住
飢えに直面 一食のご飯は
雑穀米茶碗半分位 
休み時間に野草を採りカエルを捕り
源泉で茹でて食べ 空腹をしのいだ
地元民には「虱ッ子」と蔑視された

初夏青いリンゴが実る道で集団下校
コヤマ君が得意の紙飛行機を旋回!
皆が歓声を挙げた途端家から親父が
飛出しコヤマ君を「リンゴ泥棒」と
殴り長靴で蹴った 私が「紙デス」
「リンゴ落ちません」とかばったが
「虱っ子ぶっ殺す」と私も蹴られた
「殺して下さいっ」と 私は叫んだ
騒ぎで出て来た女の人に連れ戻され
親父は家へ戻ったが私は門前に正座
「早く殺して下さいっ」と叫んだ
親父にバケツで水をぶっかけられた
私の背を両手で震えてつかんでいた
コヤマ君が 大泣きに 泣きながら 
級友数人とで私を抱え起してくれた
引率女教師三人傍観するのみだった
宿寮に帰り私は寮長から往復ビンタ
石畳に正座一時間と食抜き罰だった

検閲を逃れ 父と母へ手紙を出した
『ムカヘニ コナケレバ 千曲川ニ
荷物ト僕ガ トビコミマス』ーーと
敗戦3週間前父が迎えに来て言った
「東京は空襲で死ぬ苦しみだぞ」と
連日連夜の敵機襲来に怯える東京
やがて 敗戦の日 荒川の土手から
茫漠と拡がる 焼け跡 東京下町と
夕茜の空を 放心して眺めつづけた


 ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年8月13日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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