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戦争そして戦後 ~ライオン看板に寄せて~

【ひらさわ呉服店ライオン看板】に寄せて
エッセイをいただいた
心溢れるような想いで皆様にお届けします

平澤建二

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父が復員したのは昭和21年2月、敗戦の6ヶ月後であった。マッカーサーが厚木基地に来るのを迎える為で、旧日本兵の奇襲を恐れ、沿道の左右、ニメートル間隔で、日本兵が警備をしたと話してくれた。厚木基地の戦闘機・零戦は、尾翼を上にして立てかけて敵意が無い事を示し、全戦闘車両は、大きな穴を掘って投げ込み、涙しながら処分したそうである。夜に周辺の住人が、その部品を盗みに来たそうだが、米軍には内緒で見逃したという事でした。

父は、長男として大切に育てられた。18歳の時、病の為入院し両親に心配をかけたが、20歳過ぎて兵役に甲種合格で入隊をした。

戦友の少しのミスでも、全員並ぱされ、上官に顎の骨が折れる程殴られた辛さや、代々木の練兵場から故郷の町田の方を眺め、父や母を思った事などポツリポツリと話してくれた。「新兵さんは、かわいそうだね。また寝て泣くのかよ」と、消灯ラッパのメロディに詞をつけて唄っていた事を聞くと、切ない気持が幼心にも伝わってきた。

父は、生涯パジャマを着る事は無かった。懲罰として米袋に首と手の穴をあけ、着せられたそうで、その肌へのざらついた嫌な感触が忘れられないのだと言う。外地への出兵の当日、上官に呼ばれ他の任務を命ぜられた。自分は戦友と共にと懇願したが、命令でやむなく日本に留まったが、南方に行く船は敵の攻撃に遭い撃沈され、全員が亡くなった。

それ以来父は生涯、温かい物はすべて口にしなかった。御飯も味噌汁も、母があたたかくして出すと、「僕の気持ちが、まだわからないか。海に沈んだ戦友は、どんなに冷たかったか。自分だけが良い思いをしてはいけないんだ」と、冷ましてから食した。大好きなコーヒーも、いつも冷たくなってから飲んだ。私が生まれる前からの習慣で、そのような父の姿しか知らず大きくなるまで猫舌と思っていた。りりしく軍刀を持ち、日の丸を背にした、セピア色の父の写真から、同じような若い人達が無念にも散っていった過去を思う。

叔父は、レイテ島で「飯盒の蓋で油蝉の羽を油代わりに、ネズミやゴキブリを妙めて食べた。そんな事までしたんだ」と、吐き出すように話した。93歳の誕生日に「白い御飯がおいしい」とおかわりをし、その一口を喉に詰まらせ急死した。遺族は、食べたかった白い御飯を食し逝ったのだから満足であろうと、それぞれの心を慰めた。

父が進駐軍から貰った布がある。それを祖母が私の羽織に仕立て、6歳のお正月に着せてくれた。当時は珍しく天使が赤い実や花を持つ絵柄で、人が集まり見られるのが嫌で二度と着なかった記憶がある。父の話を聞き米軍への抵抗、戦への幼心の反発だったのかも知れない。その後虫喰いのある布を1.5メートルに切り額装にした。

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もうすぐ終戦記念日がくる。消灯ラッパの替え唄を心に、生きているのが申し訳ないと言っていた父が、天国の戦友の許に逝き15年が経つ。無事復員していなければ、生まれていなかった私は、平和の為に何が出来るのか、父の思い出と共に、夏のわき上がる雲を眺めながら皆の人生を狂わせた戦争を忘れてはいけない、繰り返してはいけないと強く思うのです。

平成29年8月7日

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