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2017年8月

【ライオン看板 敗戦後復興の証】②

毒蝮三太夫さんから電話を頂いた
【ライオン看板仕上り】おめでとう
お祝い何がイイ 花カイ 団子カイ
アニさんや俺等は戦争や負けた後の
切ない時代の苦労が身に沁みている
最後の世代ダ昭和十五年生れから
【戦争を知らない子供達】だからネ
あれこれと三十分を超えての長話
戦争を語り継ぐことの大事
平和の道を歩むことの大事が結論
大きな大きな胡蝶蘭をお届け頂いた

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昭和二十年三月十日【東京大空襲】
その年父は徴用長期不在女中禁止令
妊娠中の母が 十才の私と妹弟三人
大きなお腹を抱え独り 必死だった
一月末早産で 赤ちゃんが産まれた
母も赤ちゃんも痩せこけて栄養不良
母乳が出ない粉ミルクも牛乳も無い
離れて住む 祖母が やっと探して
ヤギの乳を求めて来たが赤ちゃんは
飲まない 母も匂いがと言った途端
おばぁちゃんの啖呵が飛んだ

「贅沢お言いでナイ」「お前さんはネ」
「5人の子供の命綱」「太くて丈夫に
そうでなきゃ 三文の値打も無いっ」
剣幕に押され 私達もヤギ乳を口に
「坊や ヤギの鳴き方知ってるかい」
『メーェ』 「違うノ ウメーだょ」
赤ちゃんは 二月五日に亡くなった
深夜警戒警報発令 紐で手首を繋ぎ
「死なばもろともょ」と母は言った
B29爆撃機編隊の 凄まじい空襲に
祖母の家は全焼 親族二人焼死した
我家に身を寄せた祖母が口惜しげに
「女子供を 上から撃ち殺すなんて
鬼畜生のやる事だ」と慟哭した

敗戦後 祖母は常々「戦争はマッピラよ
人の生き死に お上まかせはダメ」
と言っていた
 
  ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年6月25日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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【ライオン看板 敗戦後復興の証】①

東京大空襲昭和二十年三月十日未明
唸りを挙げアメリカ空軍B29爆撃が
東京下町を襲った    下町には
女 子供 年寄りのみが暮していた
深刻な戦況不利 青年達は全て徴兵
中年も軍事徴用か壮年兵招集だった

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爆撃は凄惨苛烈を極めた
照明弾投下 真昼の明るさに 照射
逃げ惑う人々に 炸裂爆弾を 投下
次に低空から油脂グリスを散布して
焼夷弾バラマキ炎上させ 機銃掃射
悲惨な焼死者は十万人を超えた

昭和二十年八月十五日無条件降伏
敗戦は死と隣り合せだった人々に
明日へ生きる希望の灯をもたらした
皇居前の米寄こせデモ 飢えていた
ボロボロを着た浮浪児 戦災孤児
物乞い白衣傷痍軍人達の切ない姿
やがて焼け跡にバラック小屋が建ち
復興へと歩み始め平和と民主主義が
小父さん小母さん達の口から語られ
東京下町の商いにも活気が出て来た
バラック建ての商店が競うように
店の上部に「トタン看板」を掲げた
下町商人の健気な心意気の看板だが
前だけ立派 後ろ建物が見劣りする
丁度ライオンのタテガミの如くだと
東京っ子らしい洒落の ネーミング
【ライオン看板】の呼称が定着した
町のランドマークとして満七十年
今や東京都内で最大にして唯一の
【ひらさわ呉服店ライオン看板】は
父や母世代が戦争の業火をくぐり
平和へ辿り着いた記念碑なのです
 
  ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年5月28日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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戦争そして戦後 ~ライオン看板に寄せて~

【ひらさわ呉服店ライオン看板】に寄せて
エッセイをいただいた
心溢れるような想いで皆様にお届けします

平澤建二

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父が復員したのは昭和21年2月、敗戦の6ヶ月後であった。マッカーサーが厚木基地に来るのを迎える為で、旧日本兵の奇襲を恐れ、沿道の左右、ニメートル間隔で、日本兵が警備をしたと話してくれた。厚木基地の戦闘機・零戦は、尾翼を上にして立てかけて敵意が無い事を示し、全戦闘車両は、大きな穴を掘って投げ込み、涙しながら処分したそうである。夜に周辺の住人が、その部品を盗みに来たそうだが、米軍には内緒で見逃したという事でした。

父は、長男として大切に育てられた。18歳の時、病の為入院し両親に心配をかけたが、20歳過ぎて兵役に甲種合格で入隊をした。

戦友の少しのミスでも、全員並ぱされ、上官に顎の骨が折れる程殴られた辛さや、代々木の練兵場から故郷の町田の方を眺め、父や母を思った事などポツリポツリと話してくれた。「新兵さんは、かわいそうだね。また寝て泣くのかよ」と、消灯ラッパのメロディに詞をつけて唄っていた事を聞くと、切ない気持が幼心にも伝わってきた。

父は、生涯パジャマを着る事は無かった。懲罰として米袋に首と手の穴をあけ、着せられたそうで、その肌へのざらついた嫌な感触が忘れられないのだと言う。外地への出兵の当日、上官に呼ばれ他の任務を命ぜられた。自分は戦友と共にと懇願したが、命令でやむなく日本に留まったが、南方に行く船は敵の攻撃に遭い撃沈され、全員が亡くなった。

それ以来父は生涯、温かい物はすべて口にしなかった。御飯も味噌汁も、母があたたかくして出すと、「僕の気持ちが、まだわからないか。海に沈んだ戦友は、どんなに冷たかったか。自分だけが良い思いをしてはいけないんだ」と、冷ましてから食した。大好きなコーヒーも、いつも冷たくなってから飲んだ。私が生まれる前からの習慣で、そのような父の姿しか知らず大きくなるまで猫舌と思っていた。りりしく軍刀を持ち、日の丸を背にした、セピア色の父の写真から、同じような若い人達が無念にも散っていった過去を思う。

叔父は、レイテ島で「飯盒の蓋で油蝉の羽を油代わりに、ネズミやゴキブリを妙めて食べた。そんな事までしたんだ」と、吐き出すように話した。93歳の誕生日に「白い御飯がおいしい」とおかわりをし、その一口を喉に詰まらせ急死した。遺族は、食べたかった白い御飯を食し逝ったのだから満足であろうと、それぞれの心を慰めた。

父が進駐軍から貰った布がある。それを祖母が私の羽織に仕立て、6歳のお正月に着せてくれた。当時は珍しく天使が赤い実や花を持つ絵柄で、人が集まり見られるのが嫌で二度と着なかった記憶がある。父の話を聞き米軍への抵抗、戦への幼心の反発だったのかも知れない。その後虫喰いのある布を1.5メートルに切り額装にした。

Photo

もうすぐ終戦記念日がくる。消灯ラッパの替え唄を心に、生きているのが申し訳ないと言っていた父が、天国の戦友の許に逝き15年が経つ。無事復員していなければ、生まれていなかった私は、平和の為に何が出来るのか、父の思い出と共に、夏のわき上がる雲を眺めながら皆の人生を狂わせた戦争を忘れてはいけない、繰り返してはいけないと強く思うのです。

平成29年8月7日

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