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2017年8月

【ライオン看板】は“敗戦”後復興の証 ~ 82才の遺言 ~

処暑 八月が終わる 例年八月
メディアに溢れかえる「終戦」の語句に
私は 極めて 不快な 違和感を
抱いている
本年82才「戦争を知る子供たち」だった
私の体験した【昭和20年8月15日】
終戦ではなく 紛れもなく
【敗戦】の日だった

今次大戦の戦死者310万人の内
餓死に依る人 約4割130万人と言う
ネズミを食べ ミミズを食べ
セミコオロギを食べた
極限の餓死者130万人なのだ
「死して虜囚の辱めを受けるな」
死んでも捕虜になるなと洗脳された

餓死130万人
現人神(あらひと神)天皇の統べる(統率)
大日本帝国「神州不滅」と狂信させられ
武器弾丸に依らぬ餓死の兵士130万人の
冷酷な数は 負け戦以外の
何ものでも無い

【東京大空襲】私は国民学校4年生だった
その日昭和20年3月9日深夜に
アメリカ軍B29爆撃機大編隊が
東京下町に襲来した
当時の首都東京は 男が青年壮年ともに
全て兵役か徴用に強制招集され男性不在
軍事施設の無い東京下町には
「女 子供 年寄」のみが暮らしていた
その東京下町を狙い撃ちに
ルメイ将軍指揮のアメリカ空軍の空爆は
加虐を極めた

1

照明弾を落下させ 真昼の明るさに
逃げ惑う人々に 爆弾を投下炸裂させ
次には油脂をバラマキ 焼夷弾投下炎上
燃える炎で焼き殺し
更には低空から機銃掃射
念入りな虐殺とも言うべき焼死者は
10万余人の多くを数えた

この猛爆に対する 日本空軍の迎撃機は
ほぼゼロ 対空高射砲も役立たずだった

当夜首都東京には 陸海空三軍総司令官
大元帥陛下も起居されていたのに
この為体だ

手も足も出ない「負け戦」だと冷厳に認め
対処すべき指導者が皆無だった
叩きのめされた「負け戦」「敗戦」を認めぬ
尊大 傲顔 無恥の指導者が
次なる沖縄 広島 長崎の惨劇への
連鎖を生んだのだ
「終戦」などとは おこがましい

「敗戦」と正鵠を告げるべきだ

(つづく)

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【ライオン看板 敗戦後復興の証】③ ~ 虱っ子 シラミっ子 ~

東京都内屈指の神社 国宝根津権現
宮司内海様 お一人で御来訪頂いた
何かなと瞬時の思案「ライオン看板
修築御祝い」とのご挨拶に胸溢れた
きもの展示室で畳にきちり正座され
歓談 爽やかに二時間余 至福の時
幼時五才の【東京大空襲】で社殿の
青白い炎の恐怖今も鮮明と語られた 

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太平洋戦争 日本人戦死310万余人 
悲惨はその内 餓死140万の人数だ
ネズミを食べた ミミズも食べた
「生きて 虜囚の辱めを受けるな」
生きて捕虜になるな死ね帝国軍人教育が
悲惨な餓死へ強制の道でもあった 
国民学校4年生軍国少年だった私も
【決死報国】を 幼い脳裏に刻んでいた
集団疎開強制命令で 長野県へ移住
飢えに直面 一食のご飯は
雑穀米茶碗半分位 
休み時間に野草を採りカエルを捕り
源泉で茹でて食べ 空腹をしのいだ
地元民には「虱ッ子」と蔑視された

初夏青いリンゴが実る道で集団下校
コヤマ君が得意の紙飛行機を旋回!
皆が歓声を挙げた途端家から親父が
飛出しコヤマ君を「リンゴ泥棒」と
殴り長靴で蹴った 私が「紙デス」
「リンゴ落ちません」とかばったが
「虱っ子ぶっ殺す」と私も蹴られた
「殺して下さいっ」と 私は叫んだ
騒ぎで出て来た女の人に連れ戻され
親父は家へ戻ったが私は門前に正座
「早く殺して下さいっ」と叫んだ
親父にバケツで水をぶっかけられた
私の背を両手で震えてつかんでいた
コヤマ君が 大泣きに 泣きながら 
級友数人とで私を抱え起してくれた
引率女教師三人傍観するのみだった
宿寮に帰り私は寮長から往復ビンタ
石畳に正座一時間と食抜き罰だった

検閲を逃れ 父と母へ手紙を出した
『ムカヘニ コナケレバ 千曲川ニ
荷物ト僕ガ トビコミマス』ーーと
敗戦3週間前父が迎えに来て言った
「東京は空襲で死ぬ苦しみだぞ」と
連日連夜の敵機襲来に怯える東京
やがて 敗戦の日 荒川の土手から
茫漠と拡がる 焼け跡 東京下町と
夕茜の空を 放心して眺めつづけた


 ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年8月13日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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【ライオン看板 敗戦後復興の証】②

毒蝮三太夫さんから電話を頂いた
【ライオン看板仕上り】おめでとう
お祝い何がイイ 花カイ 団子カイ
アニさんや俺等は戦争や負けた後の
切ない時代の苦労が身に沁みている
最後の世代ダ昭和十五年生れから
【戦争を知らない子供達】だからネ
あれこれと三十分を超えての長話
戦争を語り継ぐことの大事
平和の道を歩むことの大事が結論
大きな大きな胡蝶蘭をお届け頂いた

1

昭和二十年三月十日【東京大空襲】
その年父は徴用長期不在女中禁止令
妊娠中の母が 十才の私と妹弟三人
大きなお腹を抱え独り 必死だった
一月末早産で 赤ちゃんが産まれた
母も赤ちゃんも痩せこけて栄養不良
母乳が出ない粉ミルクも牛乳も無い
離れて住む 祖母が やっと探して
ヤギの乳を求めて来たが赤ちゃんは
飲まない 母も匂いがと言った途端
おばぁちゃんの啖呵が飛んだ

「贅沢お言いでナイ」「お前さんはネ」
「5人の子供の命綱」「太くて丈夫に
そうでなきゃ 三文の値打も無いっ」
剣幕に押され 私達もヤギ乳を口に
「坊や ヤギの鳴き方知ってるかい」
『メーェ』 「違うノ ウメーだょ」
赤ちゃんは 二月五日に亡くなった
深夜警戒警報発令 紐で手首を繋ぎ
「死なばもろともょ」と母は言った
B29爆撃機編隊の 凄まじい空襲に
祖母の家は全焼 親族二人焼死した
我家に身を寄せた祖母が口惜しげに
「女子供を 上から撃ち殺すなんて
鬼畜生のやる事だ」と慟哭した

敗戦後 祖母は常々「戦争はマッピラよ
人の生き死に お上まかせはダメ」
と言っていた
 
  ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年6月25日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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【ライオン看板 敗戦後復興の証】①

東京大空襲昭和二十年三月十日未明
唸りを挙げアメリカ空軍B29爆撃が
東京下町を襲った    下町には
女 子供 年寄りのみが暮していた
深刻な戦況不利 青年達は全て徴兵
中年も軍事徴用か壮年兵招集だった

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爆撃は凄惨苛烈を極めた
照明弾投下 真昼の明るさに 照射
逃げ惑う人々に 炸裂爆弾を 投下
次に低空から油脂グリスを散布して
焼夷弾バラマキ炎上させ 機銃掃射
悲惨な焼死者は十万人を超えた

昭和二十年八月十五日無条件降伏
敗戦は死と隣り合せだった人々に
明日へ生きる希望の灯をもたらした
皇居前の米寄こせデモ 飢えていた
ボロボロを着た浮浪児 戦災孤児
物乞い白衣傷痍軍人達の切ない姿
やがて焼け跡にバラック小屋が建ち
復興へと歩み始め平和と民主主義が
小父さん小母さん達の口から語られ
東京下町の商いにも活気が出て来た
バラック建ての商店が競うように
店の上部に「トタン看板」を掲げた
下町商人の健気な心意気の看板だが
前だけ立派 後ろ建物が見劣りする
丁度ライオンのタテガミの如くだと
東京っ子らしい洒落の ネーミング
【ライオン看板】の呼称が定着した
町のランドマークとして満七十年
今や東京都内で最大にして唯一の
【ひらさわ呉服店ライオン看板】は
父や母世代が戦争の業火をくぐり
平和へ辿り着いた記念碑なのです
 
  ひらさわ呉服店
      店主 平澤 建二
           八十二才

2017(平成29)年5月28日号
毎日新聞日曜くらぶ広告欄掲載

※2018(平成30)年3月迄連載予定

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戦争そして戦後 ~ライオン看板に寄せて~

【ひらさわ呉服店ライオン看板】に寄せて
エッセイをいただいた
心溢れるような想いで皆様にお届けします

平澤建二

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Photo


父が復員したのは昭和21年2月、敗戦の6ヶ月後であった。マッカーサーが厚木基地に来るのを迎える為で、旧日本兵の奇襲を恐れ、沿道の左右、ニメートル間隔で、日本兵が警備をしたと話してくれた。厚木基地の戦闘機・零戦は、尾翼を上にして立てかけて敵意が無い事を示し、全戦闘車両は、大きな穴を掘って投げ込み、涙しながら処分したそうである。夜に周辺の住人が、その部品を盗みに来たそうだが、米軍には内緒で見逃したという事でした。

父は、長男として大切に育てられた。18歳の時、病の為入院し両親に心配をかけたが、20歳過ぎて兵役に甲種合格で入隊をした。

戦友の少しのミスでも、全員並ぱされ、上官に顎の骨が折れる程殴られた辛さや、代々木の練兵場から故郷の町田の方を眺め、父や母を思った事などポツリポツリと話してくれた。「新兵さんは、かわいそうだね。また寝て泣くのかよ」と、消灯ラッパのメロディに詞をつけて唄っていた事を聞くと、切ない気持が幼心にも伝わってきた。

父は、生涯パジャマを着る事は無かった。懲罰として米袋に首と手の穴をあけ、着せられたそうで、その肌へのざらついた嫌な感触が忘れられないのだと言う。外地への出兵の当日、上官に呼ばれ他の任務を命ぜられた。自分は戦友と共にと懇願したが、命令でやむなく日本に留まったが、南方に行く船は敵の攻撃に遭い撃沈され、全員が亡くなった。

それ以来父は生涯、温かい物はすべて口にしなかった。御飯も味噌汁も、母があたたかくして出すと、「僕の気持ちが、まだわからないか。海に沈んだ戦友は、どんなに冷たかったか。自分だけが良い思いをしてはいけないんだ」と、冷ましてから食した。大好きなコーヒーも、いつも冷たくなってから飲んだ。私が生まれる前からの習慣で、そのような父の姿しか知らず大きくなるまで猫舌と思っていた。りりしく軍刀を持ち、日の丸を背にした、セピア色の父の写真から、同じような若い人達が無念にも散っていった過去を思う。

叔父は、レイテ島で「飯盒の蓋で油蝉の羽を油代わりに、ネズミやゴキブリを妙めて食べた。そんな事までしたんだ」と、吐き出すように話した。93歳の誕生日に「白い御飯がおいしい」とおかわりをし、その一口を喉に詰まらせ急死した。遺族は、食べたかった白い御飯を食し逝ったのだから満足であろうと、それぞれの心を慰めた。

父が進駐軍から貰った布がある。それを祖母が私の羽織に仕立て、6歳のお正月に着せてくれた。当時は珍しく天使が赤い実や花を持つ絵柄で、人が集まり見られるのが嫌で二度と着なかった記憶がある。父の話を聞き米軍への抵抗、戦への幼心の反発だったのかも知れない。その後虫喰いのある布を1.5メートルに切り額装にした。

Photo

もうすぐ終戦記念日がくる。消灯ラッパの替え唄を心に、生きているのが申し訳ないと言っていた父が、天国の戦友の許に逝き15年が経つ。無事復員していなければ、生まれていなかった私は、平和の為に何が出来るのか、父の思い出と共に、夏のわき上がる雲を眺めながら皆の人生を狂わせた戦争を忘れてはいけない、繰り返してはいけないと強く思うのです。

平成29年8月7日

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