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2011年11月

オトミサンⅣ ~ 越路吹雪 ~

越路吹雪は 昭和のエンターテナー
No1である 誰がナント言おうが
ワタシの評価は 美○ひ○りを超え
『越路吹雪No1』が真っ当精確である

その《越路吹雪》《幻の公演ポスター》が
ワタシの寝室にある

かって
①きものひらさわ
②白馬御宿かやぶき茶屋
③白馬ペンションKEN
④神楽坂マンション
各寝室私の枕元に
越路吹雪サマが微笑んでいた

昭和50年頃 信州大町市で
中華料理店を始めた弟から聞かされた
ニュースに 私は気が動転した

「コシジ ブキサンがさぁ
町外れに別荘を持ってゝ」
『何々 !!』
「時々ウチの近所に買い物に来るんダ」
『ええーっ !!』

斯くも重大事件を軽々と!!
平然と語る神経は!!
ワガ弟ながら呆れた鈍感馬鹿である
私は気を静めて弟に提案した
『オマエ落ち着いて聞けョ』

『費用はイクラでも私が出す』
『至急 出前のチラシを作れ』
『チラシは越路サマ別荘に重点的に撒く』
『越路サマ出前注文は24時間体制で
OK!!』

而して首尾ヨク
越路別荘からの御注文直後
直ちに東京の私に急報
私は夜行列車で駆けつけ
私が出前の食器と代金頂きに
越路別荘に出向く

『ソコデ 越路吹雪サマとワタシの
出会いが生まれるノダ』
この素晴しき超名案を
愚弟はニヤニヤと黙殺
結実しなかった ― 愚弟デアル ―

昭和55年(1980年)越路吹雪逝去

平成十年頃 信州白馬で私が経営する
御宿かやぶき茶屋ライブに出演された
日本舞踊家Sさんから
ビックリ 驚天動地の話を聞かされた

亡くなられた越路吹雪《別荘》が
廻り回って Sさん知人が現在所有
売却希望との話だ 即決!
Sさんに宿泊延長と先方への連絡を
依頼した

2日後 私はSさんK君居候クン
総勢7人で《旧越路別荘》に出向いた
K君Sさんとも 私の越路狂!を
先刻承知! 買う気満々の出動だった


~K君Sさん私3人声を密めて相談
結論は「NO」だった
何よりも建物の外観内部ともに
越路吹雪の「匂い」「香り」が
皆無だったのだ

周辺別荘の雰囲気からの推測だが
恐らくは建売別荘を越路さんが
(義理買い)されたのではないか~?~
~意気込んだ分 落胆も大きかった

売主さんに断念を伝え帰りがけると
「沢山お土産を頂いた御礼に」と
《越路吹雪1981年リサイタル》
つまり逝去の翌年に予定の
公演ポスターを人数分頂く事になった
《幻の越路吹雪リサイタルポスターで
ある!》
そして玄関隣の倉庫を開いて下さった
絢爛たる舞台衣装がぎっしりだった
パリでニナリッチの衣装を
500万円買った
お財布音痴の越路好み
華麗な衣装揃い
― 『ホシイー』「ダーメッ」と
SさんK君に叱られた

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ゴモットモ《越路吹雪絢爛の舞台衣装》を
呉服屋のウインドウに飾れない 
ましてや寝室に飾ったらソレワ即
世間様の(^^♪のタネになる筈と
諦めたが笑いのタネは暴露された

かやぶき美術館創立の折に集まった
旧友達にバレタ
「ナニ考えテンダ」
「相変らず馬―鹿ヤッテンだ」
「ガキだネ」と
私の評価はガタガタだったが
トミさんはひとり「うーん」と唸っていた


数年後の事だ トミさんは人脈を駆使し
故郷岩手県釜石市に
深緑夏代 高英男 などの
大御所をはじめ シャンソン界の
歌手を網羅して
それぞれの舞台衣装を 一堂に
飾りつけた
《シャンソンおしゃれ館》を
立ち上げたのだった

「ぜひ一度 来てよ」と誘われたが
その頃から 徐々に私の体は麻痺が
進行しつつあった 

「来れば芸者揚げて 歓待すっから!」
『カラオケ芸者はゴメンだょ』
「ナンモナモ 弾いて唄えて踊れる芸者が
釜石にいる」
『婆さんだろ』

「アタリ 70過ぎだ」
軽口ジョークを別にして
ぜひトミさんの故郷へも
《シャンソンおしゃれ館》も訪ねたい
私の切望が果たせなかった 

再手術をして 車椅子生活になった私に
釜石は 遠く遠い異郷になったからだ

昨年暮 突然トミさんの訃報を聞かされた
ご遺族からだった
10月に亡くなられ 病に侵されたのが
2年近く前だったとも知らされた

「病気も訃報も ケンチャンに報せるな」と
トミさんは言い措いていたそうだ

3―11東北大震災

その数日後
〔釜石最後の芸者が被災した〕
新聞記事が掲載された
〔80歳引退披露目前 衣装も着物も
全て津波に奪われた〕とあった

私は動揺した
動悸を抑え新聞社に電話を入れた
匿名で取り敢えず普段着を送りたい
夏に浴衣を送りたい
秋に引退披露の訪問着を送りたいと
希望を告げた

記事の人がトミさんの言っていた
弾けて唄えて踊れる芸者その人との
確信と トミさんにつながる思わぬ縁が
痛切だった

人生は あざなえる縄の如きもの と
亡き祖母の口癖がしきりと思い起こされ
廻り合せの不思議と 帰らぬ日々への
憧憬が切なくもある

※後記
艶子ねえさんの衣装は
著名な団体からの贈呈が決定され
シャンソンオシャレ館は復興対策本部と
なっていると仄聞しています

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オトミサン Ⅲ ~ バー ルパン ~

昭和30年代 バー《ルパン》は
銀座で一番静かなバーだった
お客が満席になっていても である

当時ママは80才を超え
銀座のママの中の最高齢で
女優高峰秀子さんも常連の店だった

トミさんは 大阪日々新聞社の
東京支社長になった
それをきっかけに暫くぶりで
会う事になった

トミさんは 大の甘党で
バーが大の苦手だったが

私とI君が 静かな雰囲気
落ち着いて 久闊の語り合いには
最適と《ルパン》に誘い出した

I君その頃 絶好調の週刊誌
《平凡パンチ》編集部に在籍多忙を
極め(現マガジンハウス東銀座)
トミさんが(大阪日々新聞支社
銀座2丁目)なので《ルパン》は
落合うのに好都合の場所だった

カウンターに3人並び
酒豪のI君はオンザロック
トミさんもっぱらジュースで話が弾んだ

ママが私の着物をほめた事で
話題が羽織袴姿で登院の時の人
漫才師から参議院議員に転進の
時事漫才コロンビァトップ氏に話が及んだ

『そうそう そう言えば』
と私がトミさんから
強引な漫才コンビを持ちかけられた
昔話をするとI君は「ナンダょソレッ」と
吹き出した =山手線電車を 乗ったり
降りたり「漫才ヤロウヨ」と
エンエンと口説かれた話に=
I君はグラスをフルワセ
「ロックが水割りにナル」と笑い続けた

『ソノ時漫才やってりゃ ケンチャン
今頃ダイギシ先生かぁ』とI君の冗談に
トミさんはマジメ顔で言った
「代議士デナイ 総理への道ダッ」
周囲に気兼ねしつつ私もI君も哄笑した


昭和50年代
私は 冬の白馬が苦手の母に親孝行の
心算で 冬暖かな房総に
ホテルマンションを求めたが
トンだ大事件に巻込れた
ホテル乗っ取り事件!
黒幕は時の政商小佐野や
ハマコーとの噂だった

ホテル所有の土地利権がらみで
乗っ取りを策略されて
千葉のヤクザも介入してきた

対抗上私達被害関係者200余人が
弁護団五人を擁し
日本で初のリゾートの集団訴訟を
起こした 

そして何故かアレヨあれょで
私は代表委員座長に選出されたが
被害者は権利意識の薄い方々で
活動費用の大半と時間も
私自身の持出しだった
裁判長も何となく生活に関らぬ
小金持達の遊びのリゾート問題との
認識らしく ややもすると状勢は
私達が苦境に追い込まれつつあった

青年弁護士O先生が切々と
「平澤さんは 筋を通したい
その一念ですよね」と切り出された
そして「口巾たい言い方ですが」
「私の頭脳と平澤さんの弁舌で
道は拓けるはずです」と言われた

トミさんに『馬鹿やってんだぁ 俺はっ』と
その話をしたのが数日後
さらにその数日後だった
今で言うフリーライターから
《小湊リゾート事件》の
取材申し込みがあった

その記者からトミさんの紹介と聞かされた
そして2週間後《週刊宝石》の紙面に
大々的な記事
《小湊リゾート事件》が報じられ
テレビ放送も後追い
形勢は一挙に逆転挽回の
チャンスになった

紆余曲折を経て 和解金8千万で
妥結した 苦渋の闘い
人の心の表裏を知る日々の連続だった

『ほぼ完全勝利 ヨッテ 御礼ゴンジョウに
参上ツカマツリマス』と
私はトミさんに伝えた

《幻の銘酒》と世評名高い日本酒4本を
手土産に トミさんの新聞社へ退け時の
夕刻に訪ねた 

居残り社員が酒銘柄を見て
「オー」と寄って来たが
トミさん「帰れ帰れ!明日だ」と
全員を帰した

「アーァッ ケンちゃん一杯ヤッカ」
『えっ』トミさん大甘党で
お猪口一杯でひっくり返る男だ

「マボロシの酒で乾杯やっかゃ」
『ちょっと待って』
私は小走りに《銀座たち吉》へ行った

ぐい飲み2個を求め
箱不用と告げると 店員は
「○○先生の箱書きですが」と
怪訝そうだった

「乾杯ィ」ホラミイ言わぬ事ではない
トミさんは ぐい呑み一杯で
真っ赤になり 机に突っ伏した

「ミズーッ」と コップ一杯 水を飲んで
軽いイビキをカキダシタ

私はそっと席を離れ
トミさんのデスクに移動して座り
ひとり飲み続けた 

窓の外 銀座の灯かりが
煌めくように 心に沁みる 夜だった

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