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2011年3月

電気依存・日本の不発弾

「はじめチョロチョロ 中パッパ
ヤヤ子(赤ん坊)泣いても ふた取るな」
コレワカッテ [お釜。カマド。薪]で
ご飯を炊く“手順”“コツ”
“レシピ?”だったのである

“ママタキ(飯炊き)三年”とも言う
ご飯を美味しく炊くのは
結構ムズカシイ事であり
女性が一人前に成る必須科目!の
ひとつでもあった
それが 今や スイッチONで 馬鹿?でも
OK!のゴジセイに相成った

我が家では しばらく前まで
鋳物釜でのガス炊飯だったが
モウ止めタッ 

頚椎再手術後5年間
私の身の回りを看て頂く
或いはお見舞いに来て頂いた
女性たち延約40人サン
老いも若きも 皆さん揃って全員
恐縮ながら 水加減火加減が
完璧でなく ママ炊き落第?だった

米は日本人の主食と言うが
いささかな言いチガイがある
米そのものは材料である
「ご飯」に炊かれてはじめて
「主食」と言えるのだ

我が家へお出での女性たちだけではない
日本人はホボ全員が
主食を「電気にお任せ」が現況なのだ
その電気に「恐怖のコスト」が
存在する事を 省みるきっかけが
東北地震津波災害なのではないか

その反省が 痛切な慮りが
生まれないなら 被災し亡くなった方々は
浮かばれないと思う

半世紀少し前まで
日本中 いつもどこかで
「停電」が常識だった それがである

飯炊きだけではない
洗濯掃除の家事は電気
マンション住居階段上り下りも
電気依存である

数えれば際限がない
生活全ての利便
はっきり言えば生活手抜きの欲望に
電気が並行して存在した

16年前 モト居候サン
いわき市のNサンに教えられ
今回の被災地双葉町へ別荘を作ろうかと
検討したことがあった

Y君K君と下見に行った
高台に温泉施設があり
見晴るかす果てない一望の太平洋は
絶景だった 

絶景の右手に原子力発電所が
見えたが 私は さして
気には留めなかった

土地は神社の社有地で格安に借りられる
手術後のリハビリ生活に好適と
前向きに考えた

母と妹も下見に出掛けた が
帰宅した母は
「景色はいいけど あたしゃ
原爆がヤだゎ」と言った

原爆と原子力平和利用の「違い?」
なるものを 私は躍起になって
聞きかじり読みかじりの知識で

半可通な説明を試みたが
母は「どうぞ お好きに」とは言いつつも
不承知の様子がありありと見て取れて
この話 結局は ご破算にした

今にして思うのは
母が慧眼だったのではない
母は当り前の常識に立ち位置に有り
私の知識が 浅はかさにも
オールメディァ依存だったのである

あの時 別荘を建てていたら
今頃私は「想定外」の被害に
遭遇していただろう

――「想定外」とはつまり
ワタシ馬鹿ょね の 同義語である

東京のベイブリッヂ
40階50階高層マンションの
津波地震の対策が如何かは
何とも心許無いがそれより以前に
只今現在高層マンションの
消費電力に「恐怖のコスト」が
含まれている事実に関心や反省が
及んでいるのかが
大事なこれからの日本あるべき
暮らしの原点なのだ

電気自動車が“エコ”のカーではなかった
その事実を見過ごせば
 「恐怖のコスト」は「恐怖の現実」に
肥大するだろう

[スカイツリー]それを
バベルの塔にするのかが
今まさしく厳しく問われているのだと
私は思う



追伸 《3月11日大地震の後》

『さまざまな方々から
心を込めたお見舞いと
お気遣いをお寄せいただきました

旬日の間 私は胸溢れ
感謝尽きざる思いで過しておりました

当日の激しい振動には
我ながら呆れるほど
平然と対処出来ましたが
事後の不連続的な余震により
頚椎にダメージを受けて
いささか体調を崩してもおりました

暇フロク休載をいぶかり
お便りお電話を下さった方々にも
心から熱い感謝を申し上げます

                          平澤 建二

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叱れるは宝

いささかヒステリックすぎる
【禁煙】の風潮が 近頃蔓延である

煙草喫いは 道路片隅に寄り集って
肩身狭そうに セカセカとした
喫煙風景は 何ともうら寂しい

私自身は小児喘息だったので
煙草は喫わないが
友人知人の紫煙くゆらす姿は
好もしく思っている

かって昭和の時代まで
天皇陛下からタバコが戴けた
功績あって叙勲
故あって宮中参内などで
下賜される(頂ける)のが
[恩賜の煙草]と称
し【菊の御紋】紋章入りの煙草だった

昭和20年代末 父はドコカラか
恩賜の煙草を【一本】手に入れて来た

フイチョーしたのだろう
ご近所の旦那衆が4~5人集まって
「ヘー」とか「ホー」とか言いながら
マッチで火をつけた恩賜の煙草を
一服づつ回し喫みをして
フーッとケムリをそれぞれがふかした後
オジサン達は口々に言った
「モッタイナイ」
「アリガタイ」
「ケド」
「ナンダナァ」~~~

「ヤッパリ タバコの味だょなぁ」
たかがタバコ一本をゴ大層にと
噴き出し笑いの私はニラマレタ

――世代のギャップ?
と言うべきだったか!

昭和30年代 私の選挙区の
鯨岡兵輔代議士が
演説会で恩賜の煙草を
右手にかざして語った
「私はねえ 天皇さんから
このタバコ戴いて
どうしょうかと考え込んじゃった」
「天皇さんにお会い出来たのは
私が少々偉くなったからだ」
「私が偉いのは皆さんが
投票してくれたお陰だ」
「となればこのタバコは
皆さんと回し喫みしなきゃならない」
「だが待てょ」

「タバコは10本 皆さんは6万人!」
「考えた末 ジブンでスッチャッタ」
鯨岡は 座談の名手だった

父が後援者だった関係で
鯨岡代議士からハガキの国政報告が
配信されて来ていた

小さい細かな字で沖縄問題が
印字されてあった沖縄について
政治家の誰もが語る事の少ない
時代だった

沖縄のアメリカ軍政下時代に
私は沖縄を4回訪れた
体験を手紙に書き
鯨岡氏に送ったら返事が来た

「某日早朝に会いたい 千住の自宅に
お出で乞う」とあった
朝寝坊の私には辛い話だったが
興味もあって出かけた
朝6時前だった

代議士は洗顔直後の様子であらわれた

「ごめんなさいょ」と言いながら
親子ほど年の違う私に
ざっくばらんな口調で
次々と質問を浴びせた 

その真摯な態度と口調に
私は少なからず恐縮したものだ
約1時間半後 迎えの秘書に合図され
ネクタイを締めながら「ありがとサン」と
代議士は 私に丁重に礼を言いつつ
出かけて行った

思想信条の違い年齢の差を超えて
その時の鯨岡代議士に
私は爽やかな敬意を抱いて
帰宅したものだ

その鯨岡氏の 国政選挙初出馬の時の
エピソードを聞かされたのは
ずっと後での事だった

氏は私淑する
日中友好に生涯かけた 時の政界で
一方の雄であった
松村謙三に応援を依頼した

快諾され下町錦糸町駅前の
街頭演説会にも
松村氏はご老体を無理をして
応援に来てくれる事になった

鯨岡氏は喜び勇んで
自らマイクを握り 宣伝カーから連呼した
「くじら くじら くじらの応援に
松村謙三先生が駆けつけました」
「クジラ鯨クジラであります」

演壇に戻ると
松村謙三氏が怒気を含んで厳しく言った
「わしゃ帰る!」と取り付くしまも無い

おろおろとした鯨岡氏が
何ごとが起きたのかと尋ねると
松村氏は強い語調で言った

「わしゃ人間を応援に来たのだ!」
「鯨を応援しに来たのでは ないっ!」

松村氏にその時 仔細を尋ねれば
人の「矜持」をと問い語っただろう

清廉潔白 頑固一徹の松村謙三氏を
鯨岡氏は生涯の師と仰いだそうだ

「叱ってくれる人は 「宝だ」 とも
言い添えていた

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