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2010年5月

薔薇慕情 ~ 子に偏愛を注ぐ日本のオフクロたちへ ~

夜来の雨で肌寒い朝だ
おお五月と謳われた 心が躍る
明るい陽差しが 今年はない

「お着替えしますか」とSさん
そして「薔薇が咲きましたょ」と
明るい声を掛けてくれた
道路に面したささやかな空間に
私の薔薇がある
朱色の薔薇 ピンクの薔薇
黄色の薔薇 Sさんの気遣いで
開けられた窓から 薔薇が見えた

元気に過していた頃私は
家の周囲や塀沿いの小空間
3階の6坪の小庭ベランダなどに
あれこれ30種位薔薇を植え
花の盛りに 通りがかりの人目を惹いて
いささか自慢だった

花の女王 薔薇の性格は
ドドーンと肥料の贅沢食い
花の盛りにバシャバシャ大水飲み
ワガママ甘ったれの溺愛好み
私のDNAにピッタリカンカンで
打って付けの花なのだ

私は父譲り植木好きだが
一年365日手入れをする盆栽
皐月はダメ コツコツ形は不向き!
‘聖火’‘プリンセスミチコ’
‘ブルームーン’が 創出された頃は
時代も華やいでいた
その少し以前の人気は
ツルバラ大輪‘ピース’が好まれ
軒並みに黄色い薔薇が咲いていた

我が家にも 2階迄 這い伸ばせた
大きなピースが2株あって
その傍らの彩りに白薔薇で
命名の由来に惹かれた
‘雪サン’を植えた

Bara

おぼろげな記憶の挿話である

明治末期 芸妓であった「雪さん」は
来日中のオーストリァ貴族に
見初められ懇望され
単身未知の国へ嫁いだ
おそらくは 切ないほどに
多くの苦労もあったに違いないが
如何なる時も 雪さんは
貴族夫人の誇りと 日本人の矜持を
忘れることなく暮らされた

成長された子息は 外交官と実業家
それぞれに ひとかどの
人物になられたそうだ

「立派な」という言葉そのもののような
雪さんが 生涯を終えご遺体が
御棺に納められる時 
ご子息たちは 雪さんのために
なれぬ手で母の髪を
日本髪風に結いあげたそうだ

異国の日本髪も丸髷も知らない
ご子息たちだ
ただ単に 髪を丸めただけ
だったのかも知れない

けれど それでも良い
それで良いのだと 私はこの話に
胸を詰まらせ 溢れる思いだった

子を育てる 育てた子が母を慕う
それは 洋の東西わけへだてなく
普遍の 無償の 愛だ

~ 薔薇の木に 薔薇の花咲く
何ごとの不思議なけれど ~
白秋の詩に 異論を呈するように
不思議な時代に 今はなった

母をババァと呼ぶ奴
オカン、オフクロでは無く距離空けて
「親」と呼称するバカが増えた

日本の母には 子育てに
“手塩に掛ける”という特技!があった
無学な母の子育ての立派さは
野口英世の例だけではない
[躾]と言う大事な 学校教育以外の
母の教育が かってこの国にはあった

当節の日本のママハハは
子どもをジュク塾ジュクと
他人任せの育成法で 手抜きになった
‘おしん’のように
子どもが酒屋煙草屋へお遣いに行く事が
神話のような時代になった

~ 残念ながら
我が家の薔薇“雪サン”も消えていた ~

手入れを怠り ヒコバエの芽が伸び
野茨に変っていたためだ

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「猫可愛がり」人生幕間と終幕と ~ 歌舞伎座さよなら公演 ~

[ 猫可愛がり] 溺愛である

母方の祖母には11人の孫がいたが
その中でダントツの差(?)をつけ
祖母は私を溺愛可愛いカワイで
「坊や」と呼んでいた
「中学生になってボーヤは可笑しいわょ」
と母の苦情も おばぁちゃんは無視
委細構わず「ボーヤ」で
「坊や」の私は おばぁちゃんの
腰巾着だった

中学での学芸会
私は[ドンキホーテ]の主役を演じた
従者のサンチョパンザを引き連れて私は
舞台中央に進み出た
―途端に― 大きな声がかかった
「マッテマシタァ!」 おばぁちゃん だった

生徒会長に立候補した
放課後校庭に全校生徒1100人位が
集まり 立会演説会が開かれ
順番が来た
私はマイク前で一礼
―途端に― 大きな声がかかった
「ガンバレー!」 おばぁちゃん だった

[ボーヤ]私のコトアルゴトに
おばぁちゃんは さまざまな場所へ
神出鬼没に現れた


おばぁちゃんは大の芝居好き
下町っ子の常で 芝居を
シバヤと言っていた 良い時代だった
呉服商の父のもとに毎月
取引問屋数社から観劇招待があって
そのほとんどが おばぁちゃんに渡った
おばぁちゃんの好みは
ドクダンとヘンケン
きわめてハッキリとしていた

「新派は ジメジメしてて嫌」
「新国劇は ヤボで嫌」
一にも二にも 歌舞伎カブキだった

1951年 歌舞伎座開場
 [ 杮落しの公演 ]
その折にも おばぁちゃんと出掛けた
私の記憶に間違いなければ
演目のひとつに
[二条城の清正]があった
先代中村吉右衛門が清正を演じていた
おばぁちやんの御ひいき役者だった

俳句をよくし人柄が堅実な吉右衛門が
豊臣家忠臣ながら徳川に加担する
加藤清正の役柄は 絶品だと
おばぁちゃんは私に 解説かたがた
うっとりと「ニン(人柄)がはまり役」
「ジツ(実)のある役者」と
御ひいき吉右衛門の自慢をしたが
「タダねー」とつづけた
「ハナ(華)が足りないのょ」とも言った

―「花も実もあるのが千両役者」
「人間誰でも千両役者を目指さなきゃ」
「でもさ 難しい」―
その言葉はある意味で
おばぁちゃんの処世訓なのだと
幼い私はおぼろげに理解したものだ

先代吉右衛門には子どもが無く
養子にしたのが現吉右衛門だが
観るたび ひそかな私の所感は
[氏より育ち]である
役者振りも所作も 先代に瓜二つだし
俳句もたしなむのも 先代譲りである

Cat


2010年 歌舞伎座さよなら公演
 [ 御名残四月大歌舞伎 ] 
月も 朧に 白魚の かがりも霞む
春の宵
名調子で知られる演目
河竹黙阿弥の当り狂言
[三人吉三]
お坊吉三―吉右衛門
お嬢吉三―菊五郎
和尚吉三―団十郎
と当代の名はまり役揃い

『待ってましたっ 音羽屋っ』
大声で掛声掛けた 瞬間
私の一月以来の風邪は
飛んで行ったようだ

♪ヤマイハ♪キカラ~~だ

休憩時間 Tはデジカメ片手に
あちらこちらと大忙しに動き回っていた

戦後間もなく空調が無い時代に
建設の歌舞伎座は 人いきれや
熱気の対処が難題で
広大な天井空間になったが
それが幸いして 大向こうから
俯瞰する舞台は 見事と言うか
壮麗雄大でもある

鳶 左官 大工等 手職人が
健在なりし頃の造作を
Tは自分の仕事柄
感慨深そうに見て廻っていた

帰途Tの案内で
山形県直営イタリァレストランの会食
あれこれ愉しく芝居談義だった

K君は演目[寺子屋]に
興味津々だったらしい
私のひいき仁左衛門や玉三郎
勘三郎の演技にも
K君らしい一家言があって
なかなかのものではあった

T子さんやTは
藤十郎の艶やかな「藤娘」の早変わりに
目を奪われ お気に入りのようだった
そして二人の絶賛は
「三人吉三」夜鷹役―梅枝だった

可憐な女形振りが「可愛いぃ」と
T子さんもTも異口同音にほめていた

K君から「ヒラサワさんはドォ思う」と
水を向けられ 私はノーガキを並べた
『可憐、清楚、綺麗な女形で満点
でも夜鷹(売春婦)の陰りが見えなくて
残念』だと言ったら
二人はナルホドナと得心の表情だった

すかさずK君に
「ヤッパリ次も うるさ方のオジサマと
一緒しますか」とマゼかえされた

昏れなずむ窓外 ワインのほろ酔い
語り合い 芝居の余韻も快い

人生は一巻の芝居だ
私の人生もそろそろ終幕に近い

おばぁちゃんの言う千両役者には
なれなかったが
さまざまな出会いと 人に支えられ
今日も明日も 未だ私の舞台がある

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歌舞伎座さよなら公演 ~ ケとハレ ~

三寒四温も花冷えも 今年の季語には
不向きだ
一夜にして 冬と春が入れ替りで
目まぐるしい

それもあり私は風邪をこじらせて
長引き 3月18日には
内科主治医から「即入院」の
厳命だったが口実をもうけて逃げ帰った
『ダッテー』である 三月と四月に
歌舞伎見物の予定が入っている

数々の思い出がある歌舞伎座が
取り壊されるのだ
行かなきゃ死ぬほど後悔スル!ト考エタ

熱狂的なフィーバー
[ 歌舞伎座御名残公演 ]のチケットは
宝クジ的確率で入手不能がジョーシキ!
しかしながらである 幸いにも
某テレビ局社長に御配慮を頂き
昨年秋チャーント 確保済みである

三月公演には K君夫妻とともに
ホームページ担当のタケウチ君を誘った
歌舞伎も歌舞伎座も
生まれて初めての彼が
芝居のハネタ後も いささかならぬ
高揚した表情だった 
誘って良かったと思った
日本人の感性も アイデンティティをも [触発] ほのぼのと心が躍った

千穐楽近い 4月25日の
歌舞伎見物は K君夫妻の他に
Tが割り込んで来た 
Tはインテリァの職について3年目
目下昼夜兼行三週間無休で
銀座での内装工事中だという
『お前 休めるのかょ』と聞いたら
「ダレかをコロシマス」と言った

前夜 前騒曲! 車椅子運転手?の
K君が来た 来るなり冷蔵庫開けて
「未だ重態ナンだ」と言った
冷蔵庫のケーキ&食器棚のドラ焼きが
手付かずなのが 私の体調不良の
顕著な症状だとの診断だそうだ

『ウッサィ バカタレ』
「ホーッ 声が出た ゲンキ回復だね」
といなされた

K君持参明日着用の着物に感心をした
①寒かったら大島紬の袷
②暖かったら白い乱格子の単衣
それに合わせて長襦袢二組を
ヨイショと持って来た
流石! 呉服屋ユカリの車椅子運転手?
ではある

当日好天に恵まれた朝のうちに
K君の奥様T子さんから電話が入った
「主人は未だ朝寝ですかしら」
「主人のきものは 白地の紬の方ですか」
「だったら私も 白地の紬帯を
締めますので」~

柳田國男ではないが
 「ケ」と「ハレ」である 時季に応じ
処に会せて 着るものに心する
忘れかけている 日本人の暮らしの
大切な美意識である

~ 一年中 膝の抜けた
スェット着用の輩に
ぜひ言い聞かせたい心がけである ~

Kabuki_2

歌舞伎座前は歩道まで
溢れる人また人の人だかりだった
陽だまりに車椅子を寄せて開場を待つと
すーっと劇場係員が寄って来た
「お加減そこねるといけません
中へご案内致します」と開演中の
ロビーへ案内された
嬉しい江戸前の 粋な心遣いである

―思い出される似た経験がある―

2000年六月
92才で亡くなった母と
五月末に知人の歌舞伎座出演を
観に出掛けた 母も車椅子だった

歌舞伎座にはエレベーターが無い
母と付添いさんを劇場前に待たせ
私はひとりで楽屋見舞いをした

戻る途中 母にバッタリ会って驚いたが
その上 母の車椅子を押す若者が
奇遇だった

’99年冬 私の信州白馬
かやぶき茶屋での ライブ
[高野聖幻想]に助演した
新劇俳優のS君だった

「しばらくです」
「今お客さんをお連れしたら
すぐ戻ります」
『その人ウチのオフクロだょ』
「エーッ」

聞けばS君は 歌舞伎座案内が
アルバイトだった…… 

ごったがえす人並みを係員に先導され
私はロビーに案内された
終演間近の舞台の演奏が聞こえる
これもまた
―祖母との思い出が重なった―

華やかな演奏は [連獅子] だった
約半世紀以上前に話は遡る

その日
「学校は1日位休んでも
坊やの通信簿はサガリャシナイょ」と
強引な祖母にお供をしての
歌舞伎座観劇だったが
開演時間にはやや遅れた

係員の「ご案内します」に
祖母は
「ヨソサン(観客)に ご迷惑だから」と
固辞して 次の演目までをロビーで待った

分厚い扉から流れ出る
三味線お囃子の音に合わせて
祖母は わずかに
手を踊らせていたものだ

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