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2010年1月

歌舞伎座さよなら公演 ~ 昭和の名役者 ~

歌舞伎座へのお出掛けを
祖母なら「シバヤ見物」
母なら「お芝居見物」と
言っただろう
私は『歌舞伎見物』わくわくである

同じように言えば
祖母「帰りしな」
母「帰りぎわ」
私「帰りがけ」に
チビKのパパが車を入れた
コインパークの傍に昔通った
美味しいシチューの店のある事を
チビKのママに告げた

当然 思い通りの筋書きで
夕食はシチューになった
至極満足ご機嫌の一日ではあった


大向こうの掛声が
心なしか 少ない小さいのが 淋しかった

染五郎の曽我の十郎 風姿と気品
その内に 大化けする役者かもしれない

勧進帳の『中村屋ァ』
私は思い切り大きな掛声を掛けた
凛とした風姿台詞回し上々だった

いささか残念だったのは
団十郎の弁慶である
顔も目玉も弁慶役者だが
相変わらず口跡が悪い 
鼻へ抜け 口ごもるような発音には
コマッタネ 『一声 二顔』
顔には文句を言わないから 
モウ一度 外郎売からやり直しだょ

演目

播磨屋がよろしい!
吉右衛門は チビKもパパも
TV鬼平でのファンとか
しきりと手を叩いてた

血のつながらぬ養子なのに
先代と立ち居振る舞い
所作がそっくりなのには驚いた

想い出す 記憶に残るあれこれがある

[籠釣瓶]
先代播磨屋の 次郎左衛門がからむ
歌右衛門の 花魁八橋
目に浮かぶ妖艶さだった

[鏡獅子]
六代目菊五郎を歌舞伎座が無い時代
東劇で見ているが 子供だったので
華麗だけが印象

[藤娘]
梅幸のおおらかで ゆったりとした
あでやかな踊りが懐かしい

[高杯]
先代勘三郎が高下駄で
あたかもタップ風の踊り
サービス精神で
ヨロケソウに道化たものだ

[助六]
先々代海老蔵
斯くも見事な美男が
世の中に存在するのかと
見る折毎に感嘆したものだ

[仁左衛門]
片岡孝夫の時代からの
私のひいき役者だ
声 顔 姿 三拍子を 兼ね備えている
先代仁左衛門も 晩年ほとんど盲目に
なったが 口跡の爽やかさでは
群を抜いた役者だった

[玉三郎]
鮮烈にデビューの頃
「足が長すぎる女形だなぁ」と
ひらさわのお得意様でもあった

名脇役上田吉二郎さんが仰っていた
昭和40年代だ
背が高い足が長い若者が
増えて来た頃でもあった

[鴈次郎]

若い頃の扇雀は 初々しく艶やかで
一世を風靡 その名を冠に
「扇雀飴」が大ヒットした
親友の俳優・山田真二とお目にかかり
気さくなお兄さんの雰囲気で
その意味でもファンになった

あれこれを そのうち 一度
昭和の名場面の回想を
メモすることも大事かな と 考えている

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歌舞伎座さよなら公演

ご承知かもしれないが 「トチリ」は
マチガイ&シクジリの言葉なのだが
歌舞伎や芝居の [ 観客席 ]では
最も上等な席の番号とされている

い ろ は に ほ へ [と ち り]
前列から7番目8番目9番目の席は
役者の顔がよく見える!
役者の声がよく聞こえる!
ひょっとして贔屓役者に掛声を掛けると
こちらを役者が見てくれる!!
見物客をひいき役者が一瞬でも
見詰めてくれる!!!
ソリャモウ芝居通にとっての その席は
ぞくぞくするヨナ快感を味わえる
最特上の席なのである

あのネである
ワタシ歌舞伎座正月公演に招待されてデある
ウキウキのお出掛けが本日1月17日昼の部
シカモデアル 花道傍の[ と ]の席と
キタモンダ

目下歌舞伎座は 新築の為4月から休場になり
さよなら公演中 大フィーバーをしていて
切符等は ほぼ絶望的に手に入らない
それがキセキ的に貴席?が入手出来たのデアル

経緯はこうだ 昨秋由紀さおりさんの
コンサートに チビッコKを
私の車椅子運転手に任命した
同行したKのママの隣席が
私の知人Oさんだった

女性のお喋りは 花が咲くだけでなく
実に成ることもある
Kのママは初対面のOさんに
Kが子供歌舞伎をやっている話
「オジチャマ(私)をゼヒ歌舞伎に
お連れしたい」と何気なく話した
Oさんが「何とか致しましょう」と仰った
後日手紙のやり取りがあって
実現したのがトチリの切符!
実は
― Oさんは 某テレビ局会長の姉上なので
道がローマに通じた! は
ヤヤオオゲサだが ―
私の歌舞伎好きを
Oさんは先刻充分ご承知なのである

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何十年も前 祖母に連れられて
歌舞伎座開場記念公演に出掛けた
祖母達世代の東京っ子は
芝居をシバヤと発音した
歌舞伎座の辺りを木挽町と呼び慣わして
東銀座とは意地でも呼ばなかった
銀座4丁目は「尾張町のカド」と
ゴウジョウだった

歌舞伎座の杮落しの演目に
二条城の清正があった
先代吉右衛門が演ずる無骨な加藤清正を
子供心に感銘した 祖母にそれを告げると
「坊や それじゃモイチド来よう」と
帰りがけに切符を買った
江戸っ子は気が早い 
その次モイチドの機会に
先々々代三津五郎の踊り「喜撰」を誉めると
「坊や それじゃモイチド来ようょ」と
また帰りがけに切符を買った

家に帰ってから母に
「いい加減になさい」と苦情が出た
負けん気の祖母が
「折角ヒトノゴキゲンにミズヲサシテ」と
つむじを曲げると 傍らの父が帳場から
封筒を持って来た
「ハイハイお義母さん」と言って
問屋さんからの歌舞伎座招待券を差し出した

「二度ある事は三度ある」
「いーえ 毒を食らわばですょ」
何だか分からなかったが言い合いが終わると
祖母も母も ご機嫌が直った
「今度は ナニ着てコカナ」
「カラスの勝手」
「ガッコのベンキョ ナンザ
セクコタないょね」
「そーもイキマセンケド」と祖母
父母公認で 私は芝居見物
学校ズル休みになった

後年 歌舞伎座の床屋でリーゼント調髪
学生割引の一幕見を数えると百回は越す
女友達と楽屋見舞いに行った
長老役者が何をカン違いしたのか
「ふたりで楽屋風呂に入れ入れ」と
ススメラレ辟易した思い出も
ほぼ半世紀前になる

母が92歳で亡くなる3週間前にも
歌舞伎座に出掛けた 
母は 娘道成寺を見物しながら
囁くように小さな口三味線を唄い
小さく小さく手が踊っていたのも
懐かしく想い出のなかにある 
あの時 母につつかれて
大きな掛声かけたように 
いっチョやるか 初春縁起が いいっ

よっ成田屋 よっ播磨屋
待ってましたァ 日本一ィ って

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新たな年の始まりに

あけましておめでとごぜます
らいねんもよるしくおねがいします


K君への「年始メール」である
差出人はネパール人
都心の飯田橋高層ビルのテナントで
ネパールカレー店を
経営しているJからである

「J! アノね 今年もよろしく ナンダョ」
「新しい年になった挨拶でしょ
ワカッタァ!」とK君は元旦早々
人のお世話で忙しい
ケイタイを閉じながら
「1月1日に 来年もよろしくはナイよね
日本語以前のモンダイ ナンダケドなぁ」
とボヤイテル

K君は 在京ネパール人約70人と
顔なじみ 日本語や日本の慣習礼儀の
相談係で大忙しである
ネパール語の読み書き喋りも
当人自称は小学生レベルとやらだが
私見では 彼の書き文字は
本職の歯科医レセプトの字より
~ココダケノ話~ハルカニ上手な字だ

ネパールへの深入りは
ヒラサワさんのセイだとK君は
公言しているが マッマ 言えなくも無い

一昔前 私が 手術とリハビリから
やっと立ち直り ボチボチ杖をつきつき
歩きを始めた頃
スキーシーズン間近に
急遽 他人に貸してあった信州白馬の
ペンションKENが
自分に戻る事態になった
アタフタと大忙しの最中
ヤミクモに雇ったコックが
ネパール人Hだった

生真面目で礼儀正しいのは気に入ったが
言葉が全く通じなくてギブアップ!
パニックになった

[ 台所に 大きな張り紙をした ]
●煮る●焼く●茹でる●揚げる●蒸す
●炒める●和える 料理用語7種の
言葉を区分けして書いた

下の欄に 使用する鍋 釜
フライパン等の調理器具を
イラストで画いて 料理の実践を始めた
更に その下欄に ネパール語の
料理用語をHに書き入れさせる
苦肉の策が 大難関にぶつかった

「煮る」と「茹でる」の区別が
Hには 何としても理解不能なのだ

もっとも居合わせた居候6人の内
正解はK君ひとりだけだった
(青みを増す塩一振りは別として)
正解の 煮ると茹でるの違いは
 「味」をつけるか つけぬかの
差なのだ だが たったそれだけを
理解させるのに 言葉の通じぬ者同士
身振り手振り 踊り続けて(?)
マルマル3日間も! かかった!

2010



言葉の大事さは 言うべくも無い
さてと思案のソノ結果 K君酒豪
Hもノンベエなのを好都合に
二人に連夜 一升瓶をアテガッテ
[日本ネパール会話教室?]を
開講させた
併せてK君を 即席ネパール語通訳に
ニンメイしたが モタモタ通訳だった

あれから13年 K君のネパール語の
読み書き喋りは格段に進歩
暇さえあればネパール語の本を
読みふけっている

昨年秋 私の通院付き添いで
車椅子を押して電車に乗った
途中の 新宿駅と代々木駅の間で
事故があり 10数分間停車した
私はウトウトと居眠り
K君は例によりネパールの原書本を
読み出した

列車が動き出し居眠りから覚めると
K君の隣に見知らぬネパール人がいて
何やら話し込んでいる

次の新宿駅下車らしいネパール人は
私の前に立って「ナマスカール」と
両手を合わせた
『ナマステ』と私は答えた
ホームに降りたネパール人は
再び 丁寧に両手を合わせて
見送ってくれた 
(ネパールではナマステが お早う
今日は いらっしゃい さよなら など
全ての挨拶語でナマスカールは
丁寧語である)

やけに丁寧で 少々ウルウル気味だった
あの若者と 何を話したのかを
私はK君に尋ねた

「お父さんと何処へ行くの?」と聞かれ
「お父さんじゃないょ これから病院」と
答えた
車椅子と首のコルセット姿の私を見て
その若者=留学生は「可哀そうに」と
言ったそうだ

K君は 答えた

「この人車椅子だけど
人生は自分で歩いているょ」 と

いささか 格好良過ぎる言葉だけれど 
新年 ココロに銘じマス

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人物往来 日々是好日Ⅳ ~ 日刊ゲンダイ 七五三 キモノシャツ ~

「花は桜木 人は武士」 
鮎もそれに劣らず 爽やかで潔い 

鮎は言わば日本の風姿だと知ったのは
日刊ゲンダイSさんに教えられたからだ
かって私は「落ち鮎」を
言わば落ちこぼれのたぐいだと
考え違いをしていた 

6年前秋深まる頃 信州白馬村
私の経営する[ 御宿かやぶき茶屋 ]の
取材にSさんが見えられた
隣村小谷村の山峡を廻る姫川に
鮎釣りの大穴場を探索して
ご機嫌釣果 鮎16尾を手土産に頂いた

囲炉裏を囲み 地酒白馬錦の
ほんのり酒で Sさんは
少しずつ能弁に 鮎の生態を語ってくれた
鮎は 清流の苔だけを食み
上へ上へと目指す 秋には
産卵のため河口へ辿り 落ち果てる
それは 人の一生 生き方にも
含蓄ある指針だと Sさんと私は共感した
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「日刊ゲンダイさんは 3時ですネ」と
店のMさん「ソレマデお休み下さい」と
言われた

時間に追われ 取り寄せの天丼で
急ぎの昼食を共にした カメラマンM君は
撮影に 出掛けた

私は暫時 寝る事にした
こんな時少しでも寝ないと身体がもたない
歯がゆいが止むを得ない

「ゲンダイさん お二階へ
お通ししました」と起こされた

Sさんに
「お久し振り お元気そうですね」と
言われて 私は皆様への答え
3パターンを紹介した

①お元気ですか?
『フゲンキデス』

②お変わり有りませんか?
『カワラナクテ コマリマス』

③お加減如何ですか?
『キョウアシタハ モチソウデス』

「いゃぁ その言い方はヒラサワ流で
相変わらずデスネ」とSさんにいなされた

日刊ゲンダイ取材に きものひらさわから
お願いの眼目は 二つある

来春売り出し ひらさわオリジナル
『キモノシャツ』素材が木綿の
とうざんしま
昔々は番頭手代の着物だった
当棧木綿縞を スタンドカラーの「和」の
長袖シャツに創作した

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6年前にも私のオリジナル
日本中初めての
『きものアロハ ゆかたアロハ』の
売出しにも
日刊ゲンダイが紹介記事を書いて頂いて
それがきっかけで
いささかなブームにもなった

Sさんに
「原宿へアンテナショップを出店しなさい」
と勧められたが 私の体調もあり
叶わなかった

言わばこの夏「ゆかたアロハ」が
TVちい散歩に取り上げられ
フィーバーした原点でもあるのだ

キモノシャツの他に もうひとつ
ヒソカニヒラサワサンの狙いがある

世の中言うべくもない 少子高齢化時代
少ない子どもに ジジババ パパママが
寄ってたかって世話焼く時代
従って三段論法なら『七五三お祝着』に
商機と勝算ありが 私の考えなのだ

ツマリ きものひらさわ
[ 七五三専門店 ]を展開したい
さすれば見渡すところ 現時点では
東京中或いは日本中に その発想は
他に無し きものひらさわ七五三専門が
拍手ゴ誕生なのである 

とマァ カイツマンデ話すと
Sさん流石に理解が早い
話が早い トントントンと
新春早々 土曜日の日刊ゲンダイに
スポット記事を書いて下さる事になった

物事は アイミ=タガイであるべきだ
天下のゲンダイさんが
記事にして下さるのだ
ゲンダイさんの期待する
―読者の反響多大―を
ヒラサワがタンポすべきが
大事な勘所である

秘策? 呈上! ソレデイキマショウと
喜んで下さったプラン
きっと読者に大きな反響があるだろう

乞う諸兄諸姉 日刊ゲンダイ紙面を
スミから隅まで ズズ ズズーィッと
御覧あれ!!である


撮影を終えたM君が 戻って来て
加わり 談笑しばしの後
Sさんが帰られた

一息入れるかと 食卓に着くと
メモと紙袋があった
ご近所のA子さんからの頂き物
中身は 柚子と京菓子
そして絵葉書二葉に 目を見張った

書道好きだった亡き妹が
生前 毎日新聞書道コンクールに
3年連続入選した折に
美術館で販売された 妹の入選作品の
写真だった

私に劣らず 客好きだった妹が
計らったような一日になった

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