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2009年3月

ライオン看板は見守っていた(2) ~ 間もなく開店セール ~

かって昭和30年代の初め頃迄
お勘定をまとめて《盆と暮》に支払う
《節季払い》の慣習があった
いわば6ヶ月決済の緩やかなシステムで
日本人社会のスローライフを支えた
側面もあったと思える
その代り 盆と暮れに支払いが滞ると
[渡る世間の義理人情を欠いた奴]と
指弾されたものだ

大晦日深夜 お代金無しで子どもさんの着物を
お渡した あのお客様は お盆が過ぎても
お見えにならなかった

8月になった
店の倉庫にいた私を 留守とカン違いした
店のKちゃんが 大声で母に喋っていた
「全くケンジさんは人が善すぎますょ
見ず知らずの人に 名前も所も聞かずに
貸しちゃって」
「ドンナ人だか顔見てミタイ!」
「お金払わない着物を子どもに着せるナンテ
それも正月にデスヨ」と舌鋒鋭い
『まぁまぁ オベンキョ お勉強』と 母

噂をすれば影 か 数日後
あのお客様が三人連れでやって来た 
子どもさんお父さんを 向かい側交番の
日陰に待たせ 大きなスイカをぶらさげ
店に入って来た

汗びっしょり 上気したような顔
上ずった口調で
「ゴメンねアンチャン」と頭を下げた
「お兄さんに ホント助けられて」
「遅くなって ごめんなさいょ」
「おかみさんも聞いてるでしょ アタシの事」
「若旦那に ご恩になったのヨ
おかみさん!」と
母に向っても 堰を切ったように
一気に話し出された 

“アンチャン お兄さん 若旦那”の
取り混ぜは 切々とした懸命さの表れかと
思えた
母はニコニコと
「さぁ さぁ お茶をどうぞ」と かわした

「娘には 内緒にしてね」と言って
外に待たせたお二人さんを手招きした
娘さんの浴衣 ご主人の浴衣
ご自分の浴衣を次々と見立てて
はじけるように嬉しそうだった

「先にお帰りょ」と父娘さんを帰されて
しばし お茶のみ話になった

ヘップ(ビニールサンダル)の内職が当って
「テイシュより稼ぎが多くなっちまった」
のだが
「前々からの押せ押せがあって
おたくには不義理をしちまって」と
何度も頭を下げられた

スイカと半紙の包みを
「これお代ね」と差し出された 
中をあらためようとすると
かるく手で押さえられ 話がつづいた

「コドモのガッコ春の運動会
分校から本校に来たらサァ 遠くから
お店の[ライオン看板]が
ニランデルのょーネッ」と
泣き笑いの表情になられた

「またちょくちょく 寄せてもらうわ」
「今度から オアシをターンと持って!」と
冗談を言って

西日射す 道の向こうへ なんども何度も
ふりかえりながら 帰えられた 

半紙の包みには 過分なお金が入っていた

商いは『利』だけではない

父の急逝で 心ならずも呉服屋を継いだ
当時の私に
やっと 商いへの道がひらけたような
出来事だった

(終わり)

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ライオン看板は見守っていた(1) ~ 間もなく開店セール ~

亡父は明治生まれ 大の普請好きだった
「あたしゃネ」と常々言った
大工のカンナの音を聞くと「ご飯が美味しい」
ノコギリの音を聞くと「昼寝がぐっすりダ」
トンカチの音を聞くと「仕事に精が出る」~~
のだそうだ

私もそれ程ではないが 大工普請が好きだ

只今 我が家は
《ライオン看板》
[店内リニューアル大工普請中]であるが
残念ながら 当今の大工仕事は 音域?が
変った

ビヒャーン ガガーガーン
ノコギリの音である
バチャバチャ バチャ バチャーン
釘打ちの音 
ノミの音など凄まじい
ギギギィッ ギイーギィである 
ワタシャ メシもヒルネもオチオチ出来ない!

戦時中買い求めた民家(シモタヤ)を
戦後の昭和20年代に 呉服屋らしい体裁に
整えようと 父は毎年ゝゝ 店の改築改造を
行なっていた 祖母は来るたびに
「マタデスカ お父さん」とタシナメテいたが
その痕跡が 目下の
《ライオン看板リニューアル》で
懐かしく発見される

店の土間に40cm真四角の穴が掘ってあり
練炭火鉢が埋けてある《イセキ?》が
発見されたのだ
火鉢以外に暖房の無かった時代
足元の暖を取る 冬の店番に欠かせない
ヒミツ兵器だった

あの時代 働き者揃いだった
明治生れの人々の中でも
父は取り分け働き者だった

「手前ドモは366日 商いを致してます」が
日頃から父の口癖口上だった
一年365日プラス大晦日の夜明かし営業
除夜の鐘が鳴ると御帳場(レジ)を〆て
それから元旦日の出迄
店員さんも女中さんも寝かせて
父は一人で掃除と店番で張り切っていた
その頃は深夜でも御客様の出入りが多く
結構な賑いだった 

その分が365日プラスの一日で
計366日という訳である

090319


昭和29年に父が亡くなった後
何時の年であったか
大晦日の宵の口から大雪が降り出した
夜半足元の火鉢でもままならぬほど
厳しい冷え込みで 来客も人通りも
ひっそりと途絶えたが
意地っ張りの私は店番を続けた

午前2時頃「オメデト 寒いね」と
中年のご婦人客がご来店 
「子どもの着物」と言いながら
三っ身の着物を手に
「ガッコ(学校)へ上がる子じゃ
小さいかしら」と聞かれた 
「ホンダチでなければ ご無理と思います」と
不審気に私は答えた 

1~2才が一ッ身
3才が三ッ身 4~5才が四ッ身
7才からは本裁ちという子どもの着物サイズが
常識として知られていた時代のことである

「七つ上がり(入学)の子でも無理かねぇ」
「ご無理ですょ」と答えて
私は ハット気がついた
お客様は着物の大きさよりも
値札を気にしておられるらしいのだ と

しばしして
『この本裁ちの柄 特別素敵でしょ
お家でお子様にあてて見て下さい』
と私が言うと
「持ち合わせがナインダョ」と答え
幾分か目を潤ませ
「家へ帰っても お金なんかありゃしない」
「除夜の鐘が鳴ったもの
元日早々借金出来ないょ」と立て続け
吐く様に話された

『どうぞ』と練炭火鉢を指差し
椅子をすすめると 腰を下ろされて
「温かねぇ」と吐息をつかれた

「まったく太平楽の亭主なの」
「晦日にお給金頂いて」
「ソノマンマ自転車(競輪)で
ジャーンなの」
「着物どこじゃないけど」
「目が覚めりゃ子どもは」
「きっと お年玉のキモノって」~
「約束だもん」
「、、、、、、子供が可哀そう、、、」

『お持ちなさいまし
お貸しするんじゃなくて二月の節分明けまで
お預けいたします』

「恩にきるゎ お兄ちゃん」
「二月のハナ迄ね スイマセン」

本裁ちの子どもの着物を大事そうに
綿入れ半天の胸に抱え 雪の中を帰られた
そのお客様は 二月になり 三月になり
初夏になっても~

お見えにならなかった

(つづく)

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