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2009年2月

日本人の面汚しだ馬鹿野郎メ! ~ 二世(ニセ)議員たち ~

「あんなヤツァ! 江戸っ子の面汚しだ!
馬鹿野郎メ!」と言う表現がある
自らの出自とアィデンティティの誇りを
傷つけられた時 下品で下卑た最低人間に
対し腹に据えかねて 憤然として使う
東京っ子の下町言葉だ

その表現で言うなら 中川前財務大臣は
『日本人の面汚し!馬っ鹿野郎!』である
大袈裟ではない 日本の国益を損じ
日本の威信を傷つけた 下品下卑た人間だ

衆目の見る所 ベロベロの酔っ払いが
クスリのセイだの ゴックンしてないだのと
ドロボーにも三分の理?
それにも足りぬ低級幼稚な言い訳には
余計に腹が立つが この騒動の周囲の
人間にも ここ迄『日本人が劣化』したのかと
憮然たる思いがする

公式の席 財務大臣の公定歩合利率の
言い間違えは 世界へ大変なミステークの
発信だ 
それを隣席の日本銀行総裁は 何故! 即刻!
その場で訂正をしなかったのか 馬っ鹿!か

ヤクだか 酒だか 原因が不分明としても
脈絡の無い受け答えダラシナイ態度を目前に
決然と詰問出来ぬ記者たちは
オベンチャラの御用記者だ 
メディァの風上に置けぬ
腰抜け!馬鹿者揃いだ

さらに事後 中川はコンナニ酒癖が
悪かったと報道するヤツは
天に唾する馬鹿である

ヨレヨレ会見の出席を見過ごした
財務省金融庁の随行員の無能怠慢にも
呆れるが
その後のバチカン観光は
税金ドロボー以外の何者でもない

手を焼く中川への官僚の叛旗だなどとの
ウガチ過ぎ見方の人間は 国政を誤る
馬鹿者だ

ついでに言うが 衆議院議員中川昭一の
公設秘書も税金ドロボーの 共同正犯だ
「これでは選挙が戦えない」と
山本一太議員他の若手議員が
テレビなどで喋っている

馬鹿言うな オマエノ選挙の為にダケ
国の政治があるのではない と教えたい が

マッ 馬鹿に付けるクスリはないか!

この全ての情けない劣化人間輩出は
けじめを付けるべき時に
きっちり処断をしなかった
過去の事例に根源がある

幼稚園児のオナカイターイとカゼヒイター
似てないか そう 中川昭一と安倍晋三だ
外遊帰りで辞職
似てないか そう中川昭一と安倍晋三と
福田康夫 二世とはニセ者だ

職を辞するとは体裁イイガ
三人とも衆議院議員は辞めてない
つまり責任を取らない
公職から身を退かない 無責任男なのだ

任命責任と言う言葉が踊るが
言うまでも無い大事は
真の任命責任者である 
最も重大な任命責任は この三人の任命権者 
北海道11区 山口4区 群馬4区の
選挙民なのではないか

日本人の面汚しを送り出した選挙民の責任は
重大との自覚が 民主主義の第一歩
再生日本の第一歩であろう
それが自覚デキヌなら
酔っ払い大臣やトンズラ首相と同罪
同じ穴のムジナである

同類快しとしないなら リコールするか
次の選挙で落選させるか である

如何か

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知られざるライオン看板の歴史(3)

昭和20年8月15日敗戦の日

見渡す限りの焼け跡あちこちに
燃えるような朱色のカンナの花が咲いていた

その年3月10日 東京大空襲
東京の下町は一面の瓦礫
焼け野原になった

アメリカ空軍の無差別爆撃で 銃後の人と
呼ばれた非戦闘員 老人 女 子どもたちが
焼き殺された
その数10万人を超えたという
隅田川に無数の死体が流れ
橋上は間隙なく ぎっしり
黒焦げの遺体だった と
父は男泣きに泣き無念の思いを
私に語り聞かせた

皇居直近の大空襲 その恫喝が
引き金のようになって
日本は アメリカと連合国に無条件降伏をした

敗戦直後の混乱 それは
あたかも 泥濘の中を
はいずりまわるかのような
世相だった

ヒロポン カストリ ドブロク
メチルアルコール モク拾い
戦災孤児 浮浪者 パンパン
傷痍軍人 ポン引き 闇市
カツギや スリ カッパライ 蚤虱 伝染病

『お天道様と米の飯』
一生懸命働けば
必ず付いてまわると
信じられていたものだが
そのころ大人たちは
「お天道様だけになった」と
冷えびえと呟いた
寒さも飢餓も背中合わせだった

それでも人々は 必死に働いた
必死に働く事で 今日をしのぎ
明日が来ると信じて働きつづけた

せわしい町中に 小商い 手職
居職 思い付きの職業が始まった
鋳掛屋(ナベカマ修理)
羅宇屋(煙草きせる修理)
目立屋(鋸刃研ぎ)
芋汁粉屋
マムシ屋(食用蛇蛙)
古着交換屋
代菓子屋(カボチャ スイカの種)
木炭バスが走り 馬車 牛車 
リャカーが大通りを通っていた

やがて掘っ立て小屋のバラック
焼け残り民家が商店に変貌して
商店の町並みが形成された

【表通りの商い】
それがいわば
ブランドにもなった時代が来た
落ち着きを取り戻し
活気が溢れて来た
商い繁盛の店々が
軒上に競って【トタン看板】を掲げ始めた

【ライオン看板】と
呼称されていたそれは
商い繁盛の商店主たちの
誇らしげなステータスシンボルでもあった
前面だけが立派だから
【ライオン】【看板】と諧謔をこめた命名の
トタン看板は東京中に広まった

ニコヨン―ハケン
ドヤ―ネットカフェ
半世紀前と―今
暗い世相が重なり合う
だが違う 大きく違う 

あの時代 父や母の世代の
人々には 必死に生きる気概があった
苦労の中でも輝くように明るかった
民主主義国家・平和国家建設という
明るい輝く未来への松明を掲げて
大道を歩んでいたからだ

往時茫々
半世紀を超えたライオン看板は
父や母たちの世代の人が
懸命に ひたむきに生きて 生きぬいた
証しの形見―
想いを込め語り伝える事もふくめ
大切な移設保存をと今 心している
そして そのことは交通事故に打ちのめされた
ひらさわ呉服店店主 私の再起の礎にもなる

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