« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009年1月

知られざるライオン看板の歴史(2) ~ 死ぬのを10年延期する ~

火災で焼け出されると「一夜乞食」になると
言われた
泥棒は「身ぐるみ剥いでいく」だけだが
火事は「身ぐるみどころか
家も剥がれて無一物」とは
正に 言いえて妙と  感心の場合ではない

昭和47年3月6日未明
我が家への火災類焼は 当初は
かなり遠い家の失火だと 望見していた

我が家へは 離れの茶室二階に ほんの少し
小さな火の粉が 風に乗って飛んで来る程度で
まずわ と ひと安心をした

弟と二人で 茶道具で火の粉に水を掛ける
ノンキな対処をしていた
それが 突如として風向きが変った
紅蓮の炎とはあのことか 巨大な火の玉が
舐めるように迫って来て
たちまち煽るようにメラメラと火がつき
我が家が燃え始めた

店へ向かうと 大勢の人が雪崩れを打つように
飛び込んで来た
火事場の手伝い 下町っ子の心意気である
商品反物を 次々運び出す町内の人々
その中で 普段は「オットリ蛍光灯」と
綽名の母の動きが 格別素早かった
寝巻姿で震えている女中さんや妹に
「何枚でも着られるだけ 重ね着なさい!」
「○○さんへ逃げて!」
「女は邪魔ョ」と叱るように指図した
その癖 母自身は 火の粉がパラパラと
飛んでくる中を 何度も店へ飛び込んで来ては
畳紙に包まれた“きもの”を運び出していた

母は着物に人一倍の愛着がある
だが命と着物と ドッチガ大事だ!
『母さん 危ないから止めなさい』と
私は大声で制止した 
右往左往の人ごみの中 ふと気がつくと
またまた母が飛び込んで来て
きものを運び出している 
業を煮やしてワタシは怒鳴った
『ヤメロタラッ ヤメロ!』
母が何か叫ぶが 聞こえない
『アブナイ!』
『ヤメローッ ヨクバリババァ!』

火が燃え移って天井板が
ぐらりと落ちて来た
畳がチロチロ燃え出した
必死で母の背を掴んで 外へ押し出した

後日の話である 母を押し出す時
フト見た店の土間に 母の草履が
向こう向きに キチンと揃えてあった
『アァユー時はネ
イチイチ履物ヌガナイデ 土足でイイノ』と
母をカラカッタラ
「あたしゃ 震災、空襲、の経験者」
「慌てません」と切り返し
「それにしても あの時アナタノ顔ったら
まるでエンマ様が シオカラナメタ(?)
みたいだった」とも逆襲された

母が必死で持ち出した 二十四枚のきものは
母それ自身の着物ではなくて
お得意様T様の[ お嫁入り支度のきもの ]
だった

その4日後に御納めを御約定の品々だった
「よくぞ持ち出してくれました
一生大事にします」と
T様から深々とお礼の御挨拶を受けて
=ヨクバリババァ=の 失言は訂正!
母のメイヨは回復された


そんなエピソードや後日談を
笑い話で語り合える迄には
ひと昔以上の長い歳月がかかる
重い辛苦の試練が連続していた


未明の火災 収束は午前五時半頃
延焼18軒を超す大火だった 
我が家から 大勢の人に持ち出してもらった
商品反物は全てが 残念ながら
消防車の放水でずぶ濡れ
商品価値はゼロになっていた
家財一切も失った
辛うじて仏壇は運び出したが
その他 耐火金庫も手提げ金庫も
中身が放水で吹き飛ばされ
紙幣は灰も無かった
泥だらけに汚れた上着も下着の替えも
一枚残らず焼けていた

店も 唯一焼け残ったのがライオン看板と
その直下のガラスウインドだけだった
夜が明け 店の土間にシートを敷いて
居場所を急造したが
黒焦げに焼けた屋根棟から
夕立のように消防車の残水が滴り落ちていた

引きもきらぬ大勢のお見舞いの方々のなかに
当時80才を超すKおばぁちゃんが
早朝からおいでだった
冷え込む店先に黙って座られ
何時かな帰ろうとなさらない
時折り道路隔てた交番でトイレを借りて
又戻られる の 繰り返しだった

やがて 人あしが絶えるのを見計らうように
Kおばぁちゃんは 帯の間から
郵便貯金の通帳と印鑑を取り出して 言った
「兄さん この中身は あなたが全部
使って欲しい」
「わたしゃ 死ぬのを十年延期する」
~ 私は泣いた 声も無く 震えて私は泣いた

Kおばぁちゃんの 心配りも鮮やかだが
人生という舞台で 斯くも見事に
斯くも粋な言葉に 出会えたのは
私の生涯の至宝だと
今もなお 胸熱く思い出す

夜半過ぎ お見舞品の布団毛布を
ウィンド内に敷いて寝る事にした
密閉したガラスウィンドが
冷え込む寒気を遮断すると考えたが甘かった
ガラスが冷気を非情に伝え
火鉢を入れると息苦しくなる
マンジリともせずに 夜が明けた

冷え込むガラスウインド生活は
その後3ヶ月続く事になった
寒さもだが 夜昼無く 風に飛ぶ
焼け焦げのゴミと埃に悩まされた

焼け跡の片づけを 東京都に相談すると
①○曜日午前6時半
②指定場所へ
③一斉に ゴミ捨てをしなさい
④料金1トンに付¥3,000だと聞かされた
『どれもこれも 焼け出されて裸の一夜乞食に
出来るはずネーダロ』と
友人に 腹立ちをブチマケタ

ひらさわ呉服店は 火災後の再建不能と見究め
手のひら返した問屋から
債権回収の内容証明が送りつけられた
火災保険は比例填補方式とかで
極めて少額な給付と聞かされた
四面楚歌の難題に
ガラスウインド内で幾晩も眠れぬ夜がつづいた

朝早く「ケンチャーン!」
「ホラホラァー 起きて起きてェー」と
合唱のような大声で起こされた
日曜日の朝だ
寝ぼけ眼をコスルト
スキー仲間の友人たちがいる
男女全員が マスク 鉢巻 軍手を着用の
格好である

焼け跡の片付けにやって来た!

トラック4台 昼飯 お茶 お茶菓子 持参で
やって来た! その人数20人以上で
やって来たのだ!

ゴミの山が 見る見る無くなる
午前中だけで2往復 昼飯は
“おにぎり&味噌汁”私たちスキー仲間の
雪山山頂バージョンだった

大車輪で働くみんなの顔が雪焼けでは無く
真っ黒 黒になった夕方
焼け跡の ゴミが 跡形もなく
きれいに片付けられた

やがて夕茜に輝く 焼け残り屹立した店看板を
見上げて友人が
「梁と柱が黒焦げですが 只今より
[ライオン看板の上棟式]です」と
道化て 私を泣き笑いさせた

焼け跡から衣装の焦げた お雛様を
拾って来た Nさんが言った
「ケンチャン これは捨てずに
ウインドの中におこうょ」 
「お父さん! 一生懸命だったんだょな
女の子が 生れて お雛様!」
「今なら100万 気張ったんだろネ」
とも言った

いつも いつでも 何ごとにも
ひたむきだった父
ひたむきに懸命だった父の [形見] 
すべての人々が
ひたむきに暮らしていた時代の 証し
 [ライオン看板] を残してやり抜こうと
私はその夜 決断をした

| | コメント (0)

新年ご挨拶

しずかである あたたかい 小春日の元旦で
ある
生き生きと生きて夢見て生きたいと
夢見つづけて年の明けたり
『ライオン看板』世間様へのデビューを
思いついたのは 去年の正月だった

ホームページ担当のタケウチ君に語ると
彼は キラリと目を輝かせ 乗ッテキタ
ライオン看板建ち上げの 戦後の混乱と
辛く苦しい時代は 現今の暗い世相と重なるが
人々のひたむきな必死さは違う
大きく違う と 私は思う

アメリカや連合国との戦いに敗れた日本の
切ない苦痛に満ちた その頃の世相は
例えようは悪いが 
現状のイラクとアフリカとを
混然としたような 瓦礫と飢えの
真っ只中にあった  

その辛苦の時代に 昂然として 胸を張り
生きて 暮らしていた 父母の世代のことを
語り継ぐべき時期が来たと思っていた
ライオン看板は そのシンボルだとも
考えていた

待てば海路の日和である

道路拡幅の話が 足立区との協議進行中に
夏の[浴衣着てサッカー観戦]の記事が縁で
朝日新聞記者が取材に訪れて来た
4時間近いロングインタビュー
こういうチャンスにめぐり合うと
ナゼカワタシは演技派になる
馬力が出て 痛み硬直 素知らぬ顔で
応対出来る フシギ不可解デアル

翌日 朝日新聞の都内版に
大きく ライオン看板の記事が掲載され
大反響を呼んだ
9月17日から ライオン看板移設につき
[ 店じまい売りつくしセール ] を始めた
好機逃すべからず 打って出たのだ

おかげ様で盛況引きも切らず
歳末まで繁盛させて頂いた 

店長も店員も ドイタドイタとガンバッタが
その間 車椅子&首のコルセット装着
ヨタヨタの私には 体力限界の日々が
連続だった 
それもだが その上 医者通いも忙しく
多事である

隔週毎に脊髄ブロック注射
週4回マッサージとリハビリ
隔週毎に整形外科で点滴と注射
月一回漢方治療 内科診療
ヨクもマァ メガマワルほど 盛沢山である

「暇のあるのが王者の暮らし」と
亡母が常々言っていた

「王者の暮らし」願望はワタシにもアル
本年こそと 元朝に期し祈念したが
ハテ如何ナルコトニ 相成ル哉!

生き生きと生きて夢見て生きたい

| | コメント (0)

知られざるライオン看板の歴史(1)

街路に笹竹が立てられ
木枯らしに笹の葉がさわさわと鳴る
そんな師走の風情は 望むべくもないが
それでも 商家に生れ育ち 商人の私には
心せわしくも 愉しい季節ではある

丁稚小僧から身を起こした父が
一世一代の事業の心算で
「ライオン看板」を建ち上げたのが
戦後の混乱期 昭和23年であったらしい


その年の暮 父は用事もないのに
外に出ては[ ひらさわ呉服店 ]の店看板を
日に何度も見上げていたそうだ 

「旦那さぁーん」と呼びに行くと父は
まるでイタズラが見っかった子どものような
顔をして 店に戻って来たと 
女中のフミちゃんが語っていた

いわば男の甲斐性だと満ち足りて
父が見上げたであろう 道路四つ角の
L字型看板は 通して11間の大看板だ

看板の字は 一筆書き(ひとふでがき)
と言った 看板の下地を塗るペンキ職人とは 
別の職人 書き屋(文字書き)のおじさんが
やってきて 白く塗ったペンキの上に
下書きも大きさも決めずに 目勘定目算で
すっすっすーぅ つっっぅーと
[ ひらさわ呉服店 ]を 一気に書上げる
手練の職人技は 驚嘆の極致である

書き上がった[ ひらさわ呉服店 ]の文字を
父と母は 下から見上げて
ひの字の跳ね具合がどうとやら
わの字に もう少し丸みが欲しいなどと
あれこれ なにやかやと うるさい注文を
付けたそうだが書き屋の職人は手間賃の他に
清酒一升と破格の祝儀袋を押し頂いて
ご満悦 鼻歌まじりで帰って行った とは
後年 母の語り草だった

注文はうるさい しかし 出来栄えが良ければ
祝儀を弾む 職人衆もそれに応える
愉しいやりとりには 東京っ子らしい心意気が
垣間見える


太平洋戦争が始った翌年
父は向島の花街 芸者衆相手の商いに
陰りを感じて 当時で言えば郊外の
足立区関原(当時の本木)に
民家を求めたらしい

周囲が生垣だった町家
東京風に言えば「シモタヤ」の二階家が
我が家になった

戦後すぐに 生垣を取り払い
建て出しをして 商店らしい体裁を整えたが
周囲はバラックや平屋が大半で
二階建の家屋は 町内でも3軒だけで
2kmほど離れた荒川土手が
二階の窓から見えたものだった

東武線西新井駅から 荒川放水路の西新井橋迄
約3km幅5m道路の両側は
様々な商店がびっしり並び
かっては 東京でも有数の長い商店会だった

マムシ屋 目立屋 砥石屋 鋳掛屋
物々交換所 芋屋 メンコ屋など
今は無い小体な面白い商い屋の並ぶ
商店街の中で ダントツの二階家
大看板の呉服屋として 父は羽振りが良く
働き者だった

戦後復興の弾むような時代の足取りにあわせ
日々張り切っていた男盛りの父の
得意絶頂の姿も思い浮かぶ 


昭和29年8月 父が急死 その後を継いだ
何も知らぬ奥様だった母の苦闘の日々が
始まった
父の七回忌の法要に
「きれぎれに 命かよわせ ひとむかし」の
母の句は まさに切ない吐息のようだった

切れかかる きれぎれな 一家七人の生活を
きものの商いに命運を賭け
女手ひとつ懸命に生き抜いた母が
私に身代譲りをしたのは その年だった

自分の志望を諦めて
呉服屋の若旦那に納まった私と家族とに
再び災難が降りかかった

昭和47年3月6日 近所の失火が
瞬く間に燃え広がり 私の家も延焼した

文字通り 着の身着のまま 全財産を失った

二階家と離れ家 二棟の自宅110坪が
すべて全焼した

その時 唯一 [ ライオン看板 ]だけが
焼け残ったものだ

| | コメント (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »