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2007年10月

哀愁の街に霧が降る ~ 俳優 山田真二 ~

親友 山田真二が逝った

Photo_3

往年の映画俳優である
エキゾチックな顔立ち 端正な容姿
燦めき耀く銀幕のスターだった

美空ひばり江利チエミ雪村いずみ
三人娘の相手役 青春スターとして
華麗に一時代を生きた

昭和30年代 テレビもネットもなく
週刊誌もお堅い3誌のみ
言わば メディァは単一だった

その時代 等身大で見られる
あこがれのスターは
舞台俳優か 映画俳優だけだった

それ故に 映画俳優は
メディァが乱立する現在とは
比較にならぬ大きな大きな存在の
文字通り「スター」だった
- 山田真二へのファンレターは
毎週軽く100通を超えた -

「ヒラサワクーン」『ツネタカー』
と呼び合っていた親友が
或る日 祖母と歌舞伎見物の帰りに
松竹映画にスカウトされ
映画スターとして 彗星のように
デビューをした

クラスメートも学校中も彼の周囲も
山田常高から山田真二への変身
スターとしての彼の出現に沸きに沸いた
彼への視線 彼への扱いが
特別なものになって行く中で
私は変らなかった

それは 彼がどういう形でか
やがて世の中の注目を浴びるだろう
と確信めいたものが 私の中にあったからだ
-山田真二のブロマイドは
売上げが即ベスト5になった - 

私と彼 高校生の二人が
初めて煙草を吸った時
秘密でジーンフイズを飲んだ時
親にも学校にも内緒でパーマをかけた時
いつも弱気でオドオドしながらも
彼の所作には『 華 』があった 

デビュー作[黒いケシ]の撮影が終わると
俳優山田真二になった彼は
その足で私の家にやって来た
人目につかないように 帽子を目深にかぶり
マスクしてと 工夫をこらしてであった

離れの勉強部屋で二人になった
『センベイ もらって来てょ』と
私が言うと 彼は 母屋へ
お茶を取りに行って来て
ごろりと大の字に寝転がり
「みんなが変わったんだょナ」と 呟いた
目をつむり涙をにじませていた
しばらく黙っていた私は
そっと彼の両目にセンベイを乗せた

スターダムを駆け上がった山田真二に
文芸大作の役が回って来た
東宝映画 夏目漱石原作の
「三四郎」 相手役は その頃
楚々とした娘役で人気があり
今も現役の八千草薫さんだった

いわば本格派俳優として
初の試練を終えた疲れ休めに
私と彼 山田のお母様の三人で伊豆山へ
旅行に行った
眼下の波濤の見える部屋で
撮影中の しんどかったエピソードも
聞かされた

旅行代金のワリカンを差し出すと
彼は「ヒラサワ ボクは今
キミの何十倍も収入があるんだよ」
「オゴルヨ」と言った
私が『何十倍も差があるからワリカンだょ』
『トモダチだろ』と言うと
「ヘンナリクツだ」と言いながら
彼は私の背にまわり 肩をつかんで
突然泣き出した

隣室から山田のお母様が飛んでくるほど
大きな声で嗚咽するように泣きつづけた

少年のような気弱な彼が
スターの座に登りつめたことで
荒ぶれる周囲に苛まれ孤独でいるのを
垣間見るようで 切なかった

[ 哀愁の街に霧が降る ] 
吉田正作曲の歌謡曲は ミリオンセラーで
正味100万枚以上売れた

今 アユもウタダも それ以上に売れる
だがそれは錯綜する情報源の中の
一分野であって
世の中の多数派オジサンオバサンは
その名を知らないのではないだろうか

哀愁の街~は 日本中に溢れた
レコード・蓄音機と音源が
各家庭に一台やっとの時代だ
古めかしく言えば 日本中津々浦々
あらゆる所に流行歌が流れ
哀愁の街が歌われた世相だった
NHKの紅白にも出場した
甘くどこか幼さの残る 山田真二の歌声が
人々を魅了した

やがて昭和の終わり頃
芸能界を引退した山田真二が六本木で
ピァノ・バー「シンジー」を開店し
毎晩 トリに 哀愁の街に霧が降る を歌い
賑わっていた

平成の初め 私は交通事故の被害に遭って
彼の店にも行かれなくなったが 数年後
快気祝いの流れで知人友人と
「シンジー」に出掛けた
カラオケキライの私に順番指名がかかると
山田真二がすかさずマイクで
見知らぬお客様にも私を紹介した
短く真情溢れるスピーチだった

歌う私の背中にまわり
彼は小さく肩をたたき
耳元でハミングをしてくれた
歌い終わると
「ウマイ ヒラサワ うまいょー」
とコドモをアヤスようにオセジを言った 

そして「ヒラサワ君のために2曲歌います」
と歌いだした 
- マイウエイ -と
- 哀愁の街に霧が降る -だった
唸る様な思いで聴いた

しばらくの間に 彼の歌は大きく変った
切々とした情感 歌に人生が投影し
歌にドラマがあった
いささかな感動を込めて
歌い終え隣に腰を下ろした彼に
『うまくなったょ』と言ったら
「ヒラサワ ク~ン」
「君らしくなく 点がおお甘じゃナァイ」
と彼は照れた

平成10年私は銀行から大きな借り入れをして
かやぶき茶屋の全面改修をした
ボロボロになった自分の身体に重ね合わせ
ボロボロな茅葺きの家の復活を夢見たからだ

リニュアールオープンのその日
彼山田真二も駆けつけて
日本舞踊の方たちとともに
華やかに ライブを繰り広げてくれた

盛り上がり さんざめく二次会で
主人役の私も 歌う羽目になった
止む無くマイクをにぎり
-マイウエイ-を 歌いだした
何時の間にか 私の背後に山田真二がまわり
マイクを持ち私の肩をつかんでマイウエイを
一緒に歌っていた
絶唱とでもいうべき歌い方だった

歌い終わり 振り向くと彼が抱きついてきた

大粒の涙を流しながら
「ヒラサワー」と言って絶句していた 

ガキの頃の あの泣き方  そのままだった

Photo

先日開催された宝塚映画祭で 山田真二出演作品が3本上映された

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金(きん)は人財に及びもしない ~ 信州御宿 かやぶき茶屋  高島政宏~

俳優 高島政宏さん 好漢好青年である

信州白馬かやぶき茶屋での
テレビロケの後 私と渡瀬恒彦さんとの
3人で記念撮影になった

私は歩けない 起てない癖に
『車椅子姿じゃカッコワルイ いやだね 』
と ダダをこねた

すかさず高島政宏さん
「オーナーさん 後ろから支えます」と…
流石は役者!段取りがいい
高島政宏さん さりげなく自身の膝を
私の後ろに出し[椅子?]モドキ!
渡瀬恒彦さんと手を組み
私を立ち上がらせて下さった
そして 小さくささやく
「ハイ黄門様」だと…
私のゴキゲン モチロン上々であったことは
言うまでも無い

TV連続推理ドラマ
[ 北アルプス山岳救助隊 ]
主演高島政宏 渡瀬恒彦の主要場面に
御宿かやぶき茶屋を
使わせて欲しいと申し入れが
約1ヶ月前にあった
ロケハンに 助監督 プロジュウサーが来て
ともに「かやぶき茶屋」を
絶賛されたと聞かされた アタリマエデアル
かやぶき茶屋のどの部分を切り取っても
TVの絵になると感嘆されたそうだ
アタリマエデアル

さらに 二階のかやぶき美術館は
次の脚本にぜひ取り入れたいと
監督が感激の面持ちで感想を言われたそうだ
アタリマエナガラ 我が意を得て
私は快く了解シタノダ

かやぶき茶屋 タッタ一つの欠点は
[ビンボウなヒロインの住い] には
オ似合いではないと
これは ヨソにしたそうだ
アタリマエナガラそれで ヨシ!
ソノ結論 アタリマエデアル

様々なやり取りは ペンションKENの
エナリ氏に一任 元毎日新聞事業部長の
エナリ氏の折衝
手腕により 順調に当日を
迎えることになった

ところで エナリ氏は
オーナーの私が白馬に来るものとの前提で
諸事を進めて下さっていた

難問がある
・私の付き添い
・いろり料理
・セッティング
・お運び etc...モロモロであるが

例によりワタクシは
周囲に『オネガイタノム』の迷惑オフレ!
を発令した
東京白馬往復の付添いK君夫妻
セッティング&お運び前マネージャー
W夫妻 料理カトーさん
トマァ 万全の体制!! さらに当日白馬に

バカタレUが来るという
(ナニシニクルノカネ)と
言ったら叱られた
ミンナシンパイシテクレテイル
感謝の念がウスイと叱られマシタ

-K君のK歯科医院本日休診-
-W夫妻 母を急病- にしたそうだ =
私ハンセイシマス

ワタシがウゴクと波風が立つ
『ワタシは お金に恵まれないが
ホント人には恵まれている』と
呟いたら 傍らのSさんが
「お金も回って来てますょ」言ってくれた
ホントカネ?!

上野駅構内で ラーメン屋に連れて行って
と頼んだ
ここ一年通院以外の外出なしで
ラーメン屋のような
ツマラントコロへ行ってみたいのだ

ラーメンと一緒に「お使い下さいませ~」
とストローが出された
不自由な私の手つきを見て
ストローでスープをどうぞ!
のサービスである

数年以前 私が母の介護をしていた頃より
間然と介護福祉の思いやりが
世上に根付きつつある

長野まで新幹線1時間20分 白馬まで車45分
グッスリヤク(薬)を飲んで寝て行った

ペンションで夜食の後
お客様がお部屋に引き揚げると
その後は何故か ギター演奏会になった
Wは若かりし頃 ギター片手に
スペイン放浪の旅を経歴に持つ
プロのギターリストだ

エナリ氏は 今もペンションで
独りギターをつま弾くこともある
いささかなロマンチストだ

W情報
K君宅押入れに時価数十万のギター
がホッポッリダシでシカモ
ビニールケース!?だと

K君のギター演奏は
私の母のリクエストにのみ可という
稀代のマボロシの名演奏家?である

3人は 80年代の音を
夢を辿るように弾いていた
ペンションの窓外は
漆黒の闇 煌くカシオペァ
白馬の こんな夜 なかなかでした


Wataseakashima

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そして史実から抹消されそうになった ~ タイチくんⅢ 沖縄 ~

タイチ君

『アメリカ占領軍政下だけど
ここ沖縄は日本でしょ!』
と 切りつけたような私の言葉に

一瞬ひるんで 押し黙り
やがて大粒の涙を溢れさせた
レコード店・小父さんの切々の思いは
生意気だった私の心にも
衝撃の痛みを広げました

一夜明けて私は 小父さんに失礼を詫びよう
頂いたレコードのお礼もしようと思い立って
市場へ買い物に行きました

ドジな私は 東京では見たことも無い
珍しい果物の山積みに気をひかれて
お礼の品を果物に決めたのですが
円とドルの換算を間違えて
「ハィオマチドウ」と包んで出された果物は
両手でドッコイショになるほどの
大きな包みになっていました

小父さんは頑固でした
お礼にと私が差し出した
果物は受け取らず ニコリともしないで

「レコードは 私の気持ちだ」と言って
そのまま 黙りこくってしまったのです
いささか憤然とした私が帰りかけると
「そのパインだけ もらうょ」
と ブスリと言いました
市場では沢山買ったので
オマケに貰ったパイナップルを1個
私は紐でぶらさげていたのです

「ちょっと待って」
と小父さんはパイナップルを抱えて
奥に引っ込みました ややしばし待たせて
パイナップルを切り分けた皿を手に
小父さんは店に戻って来ました
美味しいパイナップルでしたが
小父さんと私は 気まずく
何となく話は弾みませんでした

帰りかけ立上がる私に小父さんはボソリ
「仏さんに上げて来た」と言って
訥々(とつとつ)と話を継ぎました

沖縄戦の末期 米軍の砲撃は苛烈を極め
一尺一弾(30cm四方に弾丸1発)が
炸裂の惨禍だった 
逃げ延びた防空壕には
女子ども年寄りの居場所は入口近くだけで
兵隊は奥の方に陣取っていた
兵隊は戦闘の主力なのだからと
小父さんたちは諦めを口にした 

空腹でだろう 泣き出した赤ん坊がいた
赤ん坊と若い母親が 兵隊に銃剣で
外に追い出された
皆がみな 胸をかきむしられる様に辛かった
その追い出された赤ん坊と若い母親を
追いかけて おばぁちゃんも
防空壕の外に出て行った
そして帰らなかった...
と 小父さんは語った

帰り道 果物も 語られた話も
私には ずしりと重かった
ホテルロビーで 居合わせた人たちに
果物を配った
「これって ナンごとですか」と聞かれた

今も鮮やかな記憶にある砂川慶福さん
(八重山商工会議所の方)が
いきさつを皆さんに伝えた
噴き出すように そこに居た
あの方この方から沖縄戦の惨劇を聞かされた

やがて食堂に席を移し 昼食を一緒に
重苦しく辛い沖縄戦の体験談は
日昏れて夜まで続いた

東京に帰り 私は 沖縄について
 [ 週刊朝日 ]に短文を投稿した
編集部から電話があった

1ページの枠を空けるから
長い文章を書いてはどうかと勧められ
[ 私のオキナワ ]が掲載された

拙文を読んで感激したと 陳情に上京した
那覇の市会議員の方が尋ねて来られた話
留学?した若者が会いに来た話
縁だからときものを買って下さった
沖縄出身のホステスさんの話
お土産に頂いた みの虫の布をアイデァに
帯を作って大変好評だった 思い出もある

その後も私が 何度か渡航しての沖縄は
その都度 心なごむ旅になった 

見遙かす 果てしない紺青の海原は
時に挫折する若い私の傷心を
いたわってくれたりもした

しかしいつもオキナワは私にとって
心によどむ澱のようなわだかまりと
レコード店の小父さんや 一連の出来事が
きのうのように甦る 切なさがある

-沖縄県民かく戦えり 県民に対し
後世 特別のご高配賜わらんことを-
沖縄戦最終局面で本土に打電

直後自決した 日本海軍沖縄司令官
大田實少将の電文

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日本人の品位 ~ タイチくんⅡ 沖縄 ~

タイチ君

ブログを書き終えた直後
トモヒロから電話が入りました
「ヒマな時間が出来たので
オーナーの顔を見に行ってイイですか?」
『オマエ 俺の顔じゃなくて
ウナギのカオが見たいン ダロ!』
「フッフッフッー 両方です」

やって来たトモヒロは うな重を食べ
カンビールを飲み どらやきでお茶をして
5時間お喋り
帰りがけに 揚げモチとどらやきを
紙袋に詰めて「マタ来まーす」
と子どもみたいにニコニコでした

[日本人平均寿命(肉体年齢)が伸びた分
若者の精神年齢がコドモになっタ
がワタシの学説?]
連休が出勤になって ややメゲテイル
仕事って何なのか? 近況報告と
彼は珍しく雄弁でした

タイチ君が彼の故郷山形に来た話
ギブミイチョコのコメント
そして太平洋戦争末期沖縄県民が
旧日本軍によって集団自殺に追い込まれた
目下のニュースにも 話題が広がりました

何十年も前私は
今ならハワイへ行くような気分で
米軍占領政治下のオキナワへ海外旅行?に
出掛けました パスポートをとり
ビザをとっての観光旅行 ウキウキでした

東京から列車で長崎まで
20時間余りかかった時代でした
長崎から列車を乗り継ぎ鹿児島に行き
鹿児島から 琉球海運の新造船だった
「ひめゆり丸」で那覇迄が
片道4泊の行程でした

東京駅に見送りに来た私のガールフレンドは
大きさが1メートル数十センチもある
ベニヤ板を差し入れ?にブラサゲテ来ました
『ナンジャ コレ』と聞いたら
座席から向いの座席に渡して
簡易ベットにすると言う
まさに王様のアイデァ 重宝しました

20代の若かった私は
ひめゆり丸の3等船室
船底の大部屋で明るい沖縄の
おばちゃんたちと同室でした
夜遅くまで おばぁたちの楽しいお喋りを
聞かせてもらい 寝付いた深夜
たたき起こされました
奄美大島手前の領海線で
パスポートを臨検されるのです

明るくおだやかだった おばぁたちが
険しい表情で 口々に抗議の声を上げました
「何時もの事だけど
煮え繰り返るように腹が立つ」
「日本人が日本の海を行き来して
何故パスポートを
見せなければならないのか」
「ヤマトンチュウ(本土の人) は
何を考えてるのか!」
いつもの経験だけど でも許せない と
悔しそうな おばぁたちの言葉に
私は声をのみました

おばぁたちの苦渋を知らずに
沖縄観光旅行を海外旅行と認識していた
私自身を恥じたのです

那覇で おばぁたちに教えられた
市場に出掛けました 通貨がドルでした
1ドル=確か365円か
380円固定レートでした
市場の価格表示が妙でした
ドルは● セントは銭 と書かれてました
例えば2●50銭との記載です
ささやかな しかし 敢然とした
庶民の抵抗と言うべき土性骨です

オキナワ土産にレコードを買いに
桜通りという所の店に入り
琉球民謡を注文した時のことです
店番の白髪頭の小父さんに
「オキナワ言葉がいいですか
日本言葉がいいですか」と聞かれました
生意気だった私は
『小父さん 言い方違うョ
ここオキナワは日本でしょ』
と言ったものです

しばしの沈黙 切ない思いをしました

その小父さんは じっとうつむいて
レコードの上に ポタポタと
大粒の涙を零しはじめたのです
顔を上げぬまま小父さんは
レコード2枚を新聞紙にくるんで
「兄さんお礼だ 兄さんお礼だ」
と 2枚のレコードを 私に差し出すのです
『困ります お金払います』
「気持ちだ 兄さん」
なんども なんども 押し問答と
困惑のすえに 根負けした私は
2枚のレコードを受け取って
ホテルに戻り 考え込んだものでした

レコード店での おじさんの大粒の涙と
ひめゆり丸での おばさんたちの
悔しそうな表情とが二重写しになって
その晩は なかなか寝付かれませんでした

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タイチくん

タイチ 君 「ギブミイチョコ」に
コメントを寄せて下さったようですね
ありがとう

この夏「浴衣着てサッカー観戦」に
タイチ君は 来られなかったようですが
社会人二年目で 忙しく活躍されている
からだと 思っております
お元気でしょうね

「J'sサッカー」という雑誌を
ご存知でしょうか
「ゆかた着てサッカー観戦」の仕掛人
きものひらさわを 記事にしたいと
申し入れがありました
8月19日のイベント当日 昼過ぎに
私の自宅へ 雑誌取材に来ました
記者S氏 カメラマンM氏は
お二人とも爽やかで仕事熱心な若者でした

特にカメラマン氏は
三時間のインタビュー中に
バシャバシャ バシャバシャ!と
数十回もシャッターを切り
私の顔を写しておりました

ヨッポド どこから撮っても
被写体ダメ面だから
ムリスッンナとオシエヨーと思いましたが
仕事熱心な若者が大好きな私
オマカセにしました
(雑誌掲載のワガカオの世評や如何?ニデス)

そのお二人と 我が家に集合した千葉のK君
名古屋のY君など総勢8名で
アジスタに向いました 

FC東京が 車椅子の私に配慮して
VIP室を用意して下さったのですが

ツッパリ屋の私は
『お呼びした何千人のお客様より
上等の席には座れない』と 相変わらずの
ダダをコネテ 観客席に移動!
階段は若者4人が担ぎ上げてくれましたが
ケッコウヤバイです
前に滑り 横に揺れ (平安朝貴族の輿
江戸時代大井川の 川渡り)と
同じでしょうネ
ハタ目ほどには 優雅ではありません

観客席は例年以上に
浴衣姿で盛り上がりました

多摩市の美容院の方々
お得意様 若者達 大勢の御挨拶を頂いて
昨年夏の 頚椎再手術以来の出会いに
私はこみあげる痛切な喜びを
感じたものでした
『人との出会い』それは生きることの
実感でもあります

昨夏 生命の危機は回避出来ましたが
手術後遺症で 首から下が凍りつき
凝固したかの状態で
手も足も固い緊張と痙攣の連続でした
ジョークのようですが 一年目を過ぎて
最近やっと自然解凍?が幾分進み
ソロリソロリと家の中を
10歩位ツタワリ歩きと 車椅子の生活です
さまざまな人に支えられ 手を引かれて
めげずに暮らしております

ただ台風や風雨の悪天候時には
何故かパラレルに 体調が悪化して
疼痛もあります   

先日 首の骨に腰骨を移植した
18年前の私を指導下さった
リハリビテーションのN医長から
お葉書を頂きました
「再手術後一年経過で
あまり回復が進んでいない様子で
気になります
ネックカラー装着しての
サッカーイベントなど
さすが凄いファイターと感心しております
~信州白馬かやぶき茶屋で
テレビドラマ撮影とか
いろいろ大変と思いますが
お身体気をつけて」
と ありました 話が
とびとびになりましたが

「J'sサッカー」10月号の雑誌に掲載された
私の記事は サブタイトルに
『一期一会を大切にする男』 と
書かれてありました

ちょうど同じ日に
毎日新聞のK記者からも 取材を受けました
『明日に生きる』という題名の
コラム執筆だそうです

ふたつとも私には過ぎたる書かれようですが
『一期一会』も『明日に生きる』も
ぴたり私の生きる心得でもありますし
タイチ君達の若者に
ぜひ プレゼントしたい言葉でもあります

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