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父への詫び状-完全版- ~東京大空襲~

父に 詫びねば ならない

半世紀少し前 正確な年月は
忘れてしまったが
その日の情景は精緻に記憶している

ぴたりと 風が止んだ夕昏れ
縁側に父と小山田の小父さんが
大きく枝豆が盛られた卓袱台を挟んで
話し合っていた

何時もは賑やかに能弁な父が
言葉を詰まらせているような
緊迫した雰囲気に
そっと傍らをすり抜けようとした私を
団扇で風を送っていた母が
手招きで ここに座れと合図した

小父さんは 真っ赤に充血した目に
涙を滲ませて語っていた

シベリヤ抑留の捕虜の頃
過酷な労働と餓えで死んだ友人を
埋葬すべく 凍土が硬く
小父さん自身のひもじさ
力足らずが遺体を
浅くしか掘らずに埋葬をした
成仏出来たろうかと
その事が その事が無念な心残りなのだと
絶句していた

小父さんの手は 自身の膝に
爪を立てるように震えていた

ややあって 父が内地でも 酷かったんだと
話し出した
3月10日の「東京大空襲」のことだった

昭和20年3月10日
アメリカ空軍による東京大空襲は 
下町の木造住宅密集地を狙い打ちにして
死者10万人を超えた

死者の圧倒的多数は焼死であった

父は その日未明
自宅から約200メートル先での
類焼が収まるとすぐさま
浅草界隈の下職さん
(染物屋 紋屋仕立屋さん)たちの
安否を尋ねて
自転車で出掛けたのだが
向島から浅草へ 隅田川を
渡る橋の何れもが容易に通れなかったと言う

「ご遺体 死体だなんて
生易しいもんじゃない」
「まっ黒焦げの
ホトケさんがよけようもなく一杯なんで・・・」

自転車を担ぎ上げた父は
「ごめんなさいよ なんまんだぶ
ごめんなさいよ なんまんだぶ」
と言いつつ歩いたそうだ

「キリで心臓に穴開けられるように
切なくて 切なくて」
と父は その時の 我が身の
無力さを恥じて口惜しがった
そして ぶるっと身を震わせ
「おんぶとネンネコがいけなかった」
と言った

母親たちは赤子や幼児を綿入れのねんねこで
背負って必死に逃げた

だが その綿入れに火が点いて幼子が焼死
母親が生き残った
背中の子が機銃掃射の盾となって
母親が生き残った

「死ぬも地獄生きるも地獄 惨い」
とうめく様に父は言った

「おじちゃんのブログ読んで
泣いちゃった」
とズボンドズボンのボーカル
黒崎純子ちゃんから電話があった
「思い通りの事を書けますよ」
とタケウチ君に背を押されて
手に余るブログをはじめた
過半の理由はこの父への詫び状だ

「ピカドンも酷いけど
火あぶりで殺すのも非道じゃないか

女子供と年寄りだけの下町に
真夜中 照明弾で明るくして
焼夷弾で焼き尽くす
いくら戦争でも これはむごい 惨過ぎる」
と 父は 歯噛みして言葉を吐きだした

母の団扇はピタリと止まって
大粒の涙を受けていた

「建二!」
まじまじと私に顔を向け
父は絞りだすように言った
「親の仇も同然だ 憶えていてくれ
この空襲は
〝ルメイ将軍〟という男の発案だ」

その時 男泣きという
泣き方を生まれてはじめて私は実感をした


半世紀余 茫漠と 
しかし忘れてはいなかった ルメイ

今年(2005年)3月
新聞紙上に東京大空襲 60年の特集が
掲載され「ルメイ」の文字があった

紙面を凝然と読み進むうちに
私は 血が逆流するほどに呆然として
身体が震えた

そこには「ルメイ」に
日本政府が勲章を与えていた
と書かれてあった

後日
『ルメイ氏の日本航空自衛隊育成の
功労に由る』と知った

あろうことか
『勲一等旭日大綬章』を贈ったとも知った
思わず「恥知らずっ!」と
私はひとりで怒鳴った

私は 父の焔のような恨や憤りを
まるごと引継ぎはしない
けれども断末の苦しみをそのままにして
いかなる経緯にもせよ
勲章を与えた政治家を許したくはない

そして この勲章の異様さを見過ごす
メディアや世間や日本人とは一体何なのか!
と痛惜な思いも抱いている

今 私は 私自身も
逃げずに父に詫びねばならぬ と
詫びるべき言葉を
探しあぐねている

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