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2007年3月

硫黄島の死闘

硫気ふく島

   たゝかひのたゞ中にして、

   我がために書きし 消息

   あはれ たゞ一ひらのふみ―

   かずならぬ身と な思ほし―

    如何ならむ時をも堪へて

    生きつゝもいませ とぞ祈る―

釈 迢空・折口信夫が 昭和19年6月
決死硫黄島に赴く養子
春洋に萬感の想いを寄せた歌だ

たゝかひの島の向ふと
ひそかなる思ひをもりて、親子ねむりぬ

私の父は生前 私の誕生日の度に言った

「お前の誕生日 2月19日は
アメリカ(軍)が硫黄島に上陸した日だ」と
『だから 何んなんだょ』と
聞いておけばよかった と 半世紀を経て
今頃思う事しきりだ
父は知り得る 戦いの惨禍を非業を
語りつぎたかったのだろう と 
これまた今にして思う

きさらぎのはつかの空の 月ふかし。
まだ生きて子はたゝかふらむか 釈 迢空

映画「硫黄島からの手紙」の世評を知って
ブログを書いた 
確認が甘かった 知人にもコメントにも
教示されたが バロン西はベルリンでなく
ロサンゼルスのオリンピック出場であり
バンザイクリフはサイパン島が正確だった

硫黄島の戦いの惨劇は
「17才の硫黄島」の記述に生々しい
あまりの悲惨さに 私は精読出来ず
何度も なんども 飛ばし読みに
なったままである

   わかるべき時には なりぬ。
    さらば 手をこゝにわかたむ。 
       釈 迢空

悲痛な 釈 迢空の歌 愛惜あふれる
釈 迢空の心根が沁みる

戦後昭和24年 釈 迢空・折口信夫は
養子春洋の故郷能登の海辺
美しい砂丘の上に墓を建てた
墓碑銘も自ら書いたという

   もっとも苦しき
       たゝかひに
    最くるしみ死にたる
   むかしの陸軍中尉
折口春洋
   ならびにその
父 信夫
   の墓  

硫黄島に果てた 戦死者19,900人の遺骨
未収骨が 今なお三分の二近くあると言う

ひゅー ひゅるるー ひゅー
沙丘を 風が 吹き抜ける  

釈 迢空は 砂丘を沙丘と書いている
水に渇し 泥水が飲料水だった
硫黄島の兵の惨苦を思って――なのか

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父への詫び状-完全版- ~東京大空襲~

父に 詫びねば ならない

半世紀少し前 正確な年月は
忘れてしまったが
その日の情景は精緻に記憶している

ぴたりと 風が止んだ夕昏れ
縁側に父と小山田の小父さんが
大きく枝豆が盛られた卓袱台を挟んで
話し合っていた

何時もは賑やかに能弁な父が
言葉を詰まらせているような
緊迫した雰囲気に
そっと傍らをすり抜けようとした私を
団扇で風を送っていた母が
手招きで ここに座れと合図した

小父さんは 真っ赤に充血した目に
涙を滲ませて語っていた

シベリヤ抑留の捕虜の頃
過酷な労働と餓えで死んだ友人を
埋葬すべく 凍土が硬く
小父さん自身のひもじさ
力足らずが遺体を
浅くしか掘らずに埋葬をした
成仏出来たろうかと
その事が その事が無念な心残りなのだと
絶句していた

小父さんの手は 自身の膝に
爪を立てるように震えていた

ややあって 父が内地でも 酷かったんだと
話し出した
3月10日の「東京大空襲」のことだった

昭和20年3月10日
アメリカ空軍による東京大空襲は 
下町の木造住宅密集地を狙い打ちにして
死者10万人を超えた

死者の圧倒的多数は焼死であった

父は その日未明
自宅から約200メートル先での
類焼が収まるとすぐさま
浅草界隈の下職さん
(染物屋 紋屋仕立屋さん)たちの
安否を尋ねて
自転車で出掛けたのだが
向島から浅草へ 隅田川を
渡る橋の何れもが容易に通れなかったと言う

「ご遺体 死体だなんて
生易しいもんじゃない」
「まっ黒焦げの
ホトケさんがよけようもなく一杯なんで・・・」

自転車を担ぎ上げた父は
「ごめんなさいよ なんまんだぶ
ごめんなさいよ なんまんだぶ」
と言いつつ歩いたそうだ

「キリで心臓に穴開けられるように
切なくて 切なくて」
と父は その時の 我が身の
無力さを恥じて口惜しがった
そして ぶるっと身を震わせ
「おんぶとネンネコがいけなかった」
と言った

母親たちは赤子や幼児を綿入れのねんねこで
背負って必死に逃げた

だが その綿入れに火が点いて幼子が焼死
母親が生き残った
背中の子が機銃掃射の盾となって
母親が生き残った

「死ぬも地獄生きるも地獄 惨い」
とうめく様に父は言った

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明日へと続く路①~サロ165 貴婦人~

菜の花 桃の花 雛あられ 桜餅 が
ひとつつみ
ラナンキュラスが添えられてあった
春爛漫 ご機嫌な 至上の到来物である

「お嬢さん」と ついついお呼びしているが
5才の男の子がいらっしゃる若奥様
お得意様からの頂き物である

先日 2月14日は 近年になく私宅への
チョコの入荷 ? が 少なかった
例年ならバレンタインのコノ日
入荷ギリチョコの在庫!により
オオムネは 夏期迄の
自己消費分を確保出来る予定なのであるが
本年は入荷少量?スクナスギなのである
景気 人気 ガ ワルイノカ
何れに原因を求むべきヤと
イササカ憮然として寝込んでいたガ
三寒四温 春はゆっくりやって来た

一日遅れてチョコふたつ
チョコケーキひとつ
二日遅れて生チョコとチョコモナカを頂いた
さらに三日目 エスプレッソのマシーンと
「カミさんの手づくり」
~というケーキをK君が持参してくれた
プレゼントでハシャグ子どもみたいだが
運気 人気 未だ我にありと確信 !

という訳で 春の目覚め GO! GO! GO!
ワガ愛しのトレイン・アルプス号に
想いを馳せた

信州白馬 ペンションKENの隣に
列車サロ165を引っ張り上げたのは
昭和62年のことだ
列車アルプス号サロ165は 
“貴婦人”のその名に似つかわしく魅力的で
私は一目惚れで 国鉄清算事業団から
身請け??した

列車アルプス号サロ165の身請け金は
\450,000だったが
白馬ペンションKENの奥座敷に
サロ165貴婦人を 招き入れるまでには
諸費用\13,000,000以上がかかった 

中央線塩尻駅の 操車場に
世捨て人同様の扱いにされた
列車アルプス号貴婦人サロ165は 
南松本駅まで線路をつたい降りて
さらに国道147号を
トレーラーに乗せられ 揺られて
衆人注視の的の中 驚きと呆れの
視線を浴びつつ 白馬村に
たどり着いたものだ

そして「ンまぁ」「ヘーェ」「ヤャー」
「アンレー」などなど 道中野次馬の嘆声
驚嘆とともに 悠然と
列車サロ165貴婦人は
花魁道中さながらに
山道をゆったり ゆっくり登りつめて 
北アルプス岩岳 西山の麓
ペンションKENに御到着
鎮座したのであった

そしてそれから2年間
列車貴婦人サロ165は
カレーレストランとして
華やかに よみがえり 
スキシーズンには 五竜 栂池など
遠近より来客があり
白馬ではチョットした名流婦人に
なったものだ

それが平成元年 オーナーの
交通事故によって 一転
悲劇の道をたどることになった
誰からも顧みられることなく 化粧も剥げ
空虚ボロボロな身の上になった

世の中は 捨てる神に 拾う神である

落剥?の 列車貴婦人サロ165の
転落の姿態?を 鉄道ファンの東京練馬区の
K.Sさんが 逐年ごとに 写真に撮り
鉄道オタクの雑誌「鉄道の友」に
投稿して下さっていた
それを療養中のオーナーが知るところとなり
再びオーナーにより
テコイレお化粧直しをされた

それは10年前だったのだがハナシはマダ続く

昨冬平成十八年記録的な豪雪により
列車サロ165は壊滅的な打撃を受けた 
昨夏(は)オーナーもまた再手術により
目下 再起を賭けてのリハビリ中である

その苦境(の只中)に 白馬の騎士が現れた
G.Kさん Y.Kさんである

お二人のプラン! 

『列車サロ165貴婦人』復活の
ボランティァ活動を 立ち上げる
日本中の 『鉄屋』と呼ばれる
鉄道マニァに呼びかけ
さまざまな参加を求めよう

そしてその参加された人々を
出来れば『列車サロ165』を中心の
集まりに発展させたいと言う
わくわく楽しい 欣快な話ではある

弥生三月 一日 あたたかな日和
ラナンキュラスが花開いた
赤 紫 黄 白 鮮やかに 心地よく快い
今日が明日につづくだろう

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