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2007年2月

厳格に規定して拒否する時流へ~泣かないで~

ぼけ が 認知症 になった
時流の言い換えである
オトボケの“ボケ”もウイングに入っていた

『 呆け 』『 惚け 』と 呼称する
おおらかさが 消えることを
いささかならず『イイのかな』と
私などは思うのだが 如何なものだろう

旧冬12月27日 六本木俳優座劇場で 
モダンダンス山田奈々子さんの
リサイタルがあった
一昨年 現代舞踊の芥川賞とも言うべき
「江口隆哉賞」を受賞された奈々子さんは
芸も ひととなりも ひとすじな道を
ひたむきに往き
すぐれて視点が 現代 今 に
鋭敏な方 でもある

俳優座は入口から 数段の階段を降りて
ロビー さらに沢山の階段を上って
客席となる
バリァフリーに程遠いし 楽屋に至っては
くねくねと 降りて上ってがつづき
迷路のようだ

車椅子の現況で 私は止む無く
観賞をあきらめたが
当夜は ダンスもテーマも 心打つと
大方の賛辞を浴びたということだ
そのプログラム所載の 山田奈々子さん
ご挨拶文を 御了解を得たので
ご紹介をしたい

文中 奈々子さんが引用された
盟友故吉原幸子さんの詩 母への一節には
ホームページ担当のタケウチ君が
心を揺すぶられる思いだと
かみしめるようにつぶやいていた

以下 山田 奈々子さん
リサイタルに寄せた文
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喜びも悲しみも怒りも総てを飲み込んで
2006年が暮れていく。

人のいのちが、現在何故こんなにも
軽くなってしまったのだろう。
あまりにも悲し過ぎる。
生のうしろに必ずある死、
だからこそいのちはかけがえなく
美しく輝いているのに。

記憶していることの苦しみ、
記憶が消えていくことの切ない哀しみ。
過去の記憶がない幼児によって
世の中はいつも新鮮な驚きに満ちている。

「あなたは誰」そしてあなたに
毎日新しい恋をする、
「ここは何処」そして同じ風景に
毎日感動する。
消えていく記憶、だからこそ新鮮な今日。
毎日始まる新しい人生。

今日の舞台は決して
暗い悲しい物語ではない。
事故や病気、加齢と
おそいかかって来る災いと闘いながら、
一瞬一瞬を大切に、希望を持って
前向きに生きたいと願う応援歌。
信じれば奇跡は起こる。

詩人吉原幸子の母にあてた詩
「泣かないで」の一節に
このような言葉がある

あなたが三分で忘れることを
わたしだって三日で忘れるのだから
永遠のなかでは たいしてちがわない
母よ
時間が夢のやうに流れて
いとしいものがごちゃまぜになって
うらやましいわ

泣かないで

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言葉というツール~警察病院 日医大病院~

亡母は92才の長命であったが
50才代半ばから糖尿病と余病があった
89才の時 心筋梗塞を起こして
意識不明になり 救急車で運ばれ
警察病院集中治療室に入れられた
最初 騒しかった集中治療室
室内の物音が 30分ほどすると
シーンと静まり返った

ダメか 駆けつけた者皆が
同じような思いでうつむき
孫娘などウルウルの状況になった

トタンに母の大声が聞こえた 耳が遠く
若い頃長唄で鍛えた良く通る
一段と大きな声である
「センセ! アタクシの場合は
オムカエがチュウトハンパで 困ります!」
????? !!!!!

母より少しお年上だった ご近所Mさんの
亡き母上 90才近くの晩年に
日医大病院で大手術をされた
意識がなかなか戻らず 周囲の方々が
沈痛な思いで見守っていた

主治医が呼びかけた
『おばぁちゃん おばぁちゃん!
ここが どこだか 判りますか!』
Mさんの母上 ニッコリと シッカリと
答えたそうだ
「ハイッ 大日本帝国!
― お世話さまで ゴザイマス」!!!!! ???

母よりお年上 Kさんの母上は100才を
超えて亡くなられたが 晩年も
矍鑠としておられた
歳には勝てぬ 病に勝てぬ
とおっしゃりながら 病院大嫌いで
検査入院すら嫌がった
町医者ホームドクターに通院していたが
混み合う待合室で最長老の母上サマ
顔見知りご近所の皆さんから
何時でも必ず 敬意を込めて
お先にどうぞ と 順番を譲られる
「有難いけど 気骨だょ」が
母上サマの口癖だった 

ある時 意識不明重体になり
緊急往診を受けて 危機を脱した母上サマ
開口一番言ったそうだ
「センセ! アタクシはヨウゴザイマス
お待ちの方を お先にドーゾ」!!!!! ??

率直に言って 3人とも格段の出自
という訳ではない
明治生まれ フツーのおばぁちゃまである
ただいささかの身びいきを言わせて頂くなら
人の生き死にの瀬戸際に かくも水際だった
洒落た決め台詞が出るあたり 半端ではない

人生わずか五十年~と信長
浪速のことは 夢のまた夢~と秀吉
死に直面しての辞世の言
出来過ぎと思えなくもないが 
言葉を 唯一のツールとして生きた人々が
羨ましいほど豊穣に 私には思える

蛇足だが 若者たち!
携帯 メール パソコンからの発信が
明治生まれフツーのオバァチャンに
劣らぬ自信を 持ち得るだろうか

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転んでもタダでは起きぬ~勘三郎煎餅~

警察病院から だらだら坂を下りきると
市谷堀 かっては江戸城の外堀であった

それに沿う国道外堀通りを 突っ切ると
真向かいが 坂の街 神楽坂である

只今 フジテレビの連ドラ 脚本 倉本聡
主演 二宮和也 「拝啓父上様」の
舞台であり 往時も今も 商店が軒を連ね
賑わっていて 横丁 路地も 色町
芸者衆も 健在な 下町情緒の色濃い
風情ある街である

18年前 私は交通事故の被害で
首の骨3箇所に腰の骨の移植手術を行なった
警察病院で手術後は
ベットに固定されて苦渋の40日後
やっとの立上り練習からはじまり
歩行器でのヨチヨチ歩きが
介添え付きのヨタヨタ歩きに進化 ?
次に 屋上での歩行練習
そして歩道の歩行訓練を経た後で
100日目 あたかも北アルプス
縦走のような決意?で 病院から
神楽坂上迄のリハビリ散歩の外出許可願いを
主治医 当時整形医学界屈指の存在の
故加藤文雄先生に申し出た

「ウーン」加藤先生は しばし黙考の後
下り坂は 転倒の危険があるので
タクシーで行く事
上り坂の歩行も介添え人付を条件に
「疲れたらタクシーで帰りなさいょ」と
私のワガママを許可して下さった

当日は A君と 神楽坂住人のD君が
付き添ってくれた
7月末の暑い日だったが
坂上の毘沙門天が目標だった
疲れるとウィンドショッピング風を気取り
立ち止まって休める 神楽坂は
優しい町だった

手術後
日記を書き続けるように
弁護士から強く奨められていたが
指が不自由 ペンが無理なので
日記代りに 俳句には程遠い
五七五のメモワールを作っていた

A 介添えの手も汗ばみて毘沙門天
B 介添えの手が汗ばみて毘沙門天  
C 介添えの手の汗ばみて毘沙門天
(も)だ(が)だ(の)だと
道々3人思案でウルサイ割には
智恵のない駄句の仕上りだった 

やっと たどり着いた毘沙門さまの階段は
段差がきつく 二人に左右から
支えられても 上れない
ままよと門前の階段に 3人で座り込み
D君持参の魔法瓶の麦茶で喉をうるおし
A君が 目の前の煎餅屋から
「勘三郎煎餅」を買ってきて3人でカジッた

「勘三郎煎餅」とは
先代勘三郎の名に由来する
先代勘三郎は 亡母など
「いなせ を絵に描いたようないい役者」
と 大のご贔屓で 気風の好い
江戸っ子役者だったが
その分 東京っ子独特の セッカチ
オセッカイ コドモッポイ マケズキライな
人だったらしい?     

以下 聞き伝えの話である

センベイヤにセカセカ飛び込んだ勘三郎
「焼立てをオクレ」「マダカイ」
「マダナノカイ」とセワシナク待ちかね
仕事場に迄 入り込んだ
職人衆が長箸で 電光石火の早業!
センベイを引っ繰り返して焼く
手練熟練の技を見てて
勘三郎 自分もやってみたくなった
「ヤラセテオクレ」で始めたが
いかな名優とて熟練技に及ばず 失敗連続
焦がしてシマッタ
シマッタと云わぬ所が 役者である
「コオバシクテ オイシイョ」と
負け惜しみが 強い
コゲ煎餅を全部買って帰り
楽屋で
「ネッ ネッ オマィサン オイシイダロ」
「ドウダイ!」と ご贔屓衆 出入り衆
部屋子衆に それからそれへと食べさせた…

さて そしてである
【初っ端 如何と思うたが
段々ヨクナル法華の太鼓
いづれも様の御評判!】という次第
『勘三郎煎餅誕生』オソマツの一席ではある

転んでも ただ起きぬ初一念 挫けぬ意思
それが人生! チャレンジと思いませんか!
ねぇ 世間のお若い衆 !!

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雪に雪ふるしづけさにをる~ラジオ大阪出演~

夜半 静かな雨音にぼんやり目醒めた
障子を開けると 葉を落とした
むくげの木が うっすらと見える

昨夏 手術入院の朝  むくげの木には
花も葉も 枝がたわむほどについていた
退院の日 むくげは 葉が黄ばみ
残(のこ)んの花がわずかで
秋十月を思わせた

今 葉も花も ひとひらもない
裸木のむくげは 冬木立の趣きで
それはそれで好ましい

暑さ寒さの 折々に
自らの立ち居を失わぬ むくげに倣うかと
わが身をひとり省みた

筋書きは 一期一会の仕上がり!? のようだ
結婚式に隣席の方が 私のブログを読んで
ラジオ大阪に推選して下さった
白馬の『御宿かやぶき茶屋』紹介をとの
ありがたい 御依頼で 
ラジオ大阪土曜ワイド
「出発進行!! うめじゅんです」に
出演する事になった

朝8時10分から 15分間
名物アナウンサー うめじゅんさんの
電話インタビューだが
朝寝坊の私には
いくぶんシンドイ話ではある 

「朝 起しに」「お茶淹れに」
「朝食早目に」来よう!来よう!との
申出を 当然ながらヒラに
ゴ容赦お断りした
タカダカ コレシキに
『タレントじゃアルマイシ』付け人無用と
突っ張ったが 本音ホントは辛い

手術後の手足の硬直と痙攣発作が
夜中にまだ発症するし
ひとりでの伝わり歩きも10数歩が限度であり
1m歩くのに12~14歩かかる
ベットから電話迄は1m50cmの
長距離?である 
自分での お茶淹れダメ
カフェオレ トースト 出来っこナイ

笑うな! つまりは ワガ限界に挑戦?
なのである

7時マネージャーに電話で起こされた
白馬は待望の降雪中だという
“雪に雪ふるしずけさにをる”
山頭火の句を切り出しに
うめじゅんさんと話が始まった

ワイドショーの司会者は
アクセル踏みっぱなしみたいな話術の方が
多いが 思いがけず うめじゅんさんは
ゆったりした話し振りなので
話の流れが楽しく 盛り上がった

白馬の古民家宿 かやぶき茶屋は
私の履歴書でもある

昭和47年私はソソッカシク半分ダマサレテ
廃屋同然を買い取った茅葺き屋根古民家が
現在の『御宿かやぶき茶屋』である 
信州白馬村でも 暮らしの息づく
茅ぶき古民家は
今は ここ一軒だけになった

かやぶき いろり ほりこたつ 
日本人のアィデンティティともいえる
山村の暮らしの原点を 甦らせた自負が
私にはある 
屋根巾14間28m 60畳の大座敷
4階層の吹き抜け 24帖の板ノ間
8畳1部屋 
堂々 豪壮の古民家は タイムスリップ
時の流れを止めて 郷愁を誘う空間だ

そして二階大屋根裏は
種田山頭火秋山巌の版画
かやぶき美術館である

話は尽きぬ   

『いろりをかこみ 火をもやし 食を共にし
語らいの時』をご相伴に ぜひ お過ごしを
と そんな想いで リスナーの皆様に
申し上げたつもりだが 15分では
言い尽くせぬ

放送が終わった途端 かやぶき茶屋の
電話が鳴り続けて
「問合わせ」「パンフレット送れ」
「泊まりたい」と 当日だけで
20数名の方々に 御応対!

マネージャーからは
『ひらさわ節 全開でーす」とアオラレタ

幼稚園のオトマリホイクみたい

ワタシやっとヒトリアルキ 出来そうデス

自信ツキマシタ

ほんとうに ありがとうございました

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