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2006年10月

退院のご挨拶

深み行く秋の気配 ひとしおの日頃です
ご健勝に お過ごしと存じます

この夏 私は首の脊髄を切り開く手術のため
八月二日に 入院をいたしました
   
当日不測の事態があるやも知れぬとのことで
手術中止 或いは 延期を告げられましたが
座して死を待つよりはと 手術を望みました
   
痛苦のなか 生還いたしましたが
   
手術後遺症とも言うべき 下半身麻痺になり
さらに両足硬直 左手痙攣など発作が頻発し
その上 病室の不衛生によるアレルギー発作
など 苦渋連続の日々でした 
当初三週間予定の入院期間が六十日を過ぎて
今なお 回復には ほど遠い症状のままです

しかしながら この間の 私を
溢れるような思いで 看護をしつづけ励まし
お気づかい頂いた多くの方々の お心に応え
病床六尺から抜け出て
再起を探るべき時と考えました

よろめくとも 自らの足で 大地を歩みたい
その想いで 十月七日 退院をいたしました

生き生きと 生きていたい
生き生きと生きて 夢を見ていたい

いささかならぬ 甘え 多いことですが
限りある日々の 明日を信じて 生きる
そのことのみが ただひとつ
皆様への 御礼の道と 心しております
今 ひたすら
つきせぬ感謝の思いで 胸いっぱいです

ほんとうに ありがとうございました 

平成十八年十月
                                           平澤 建二

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“馬鹿”が差別語の馬鹿な時代

「馬鹿」が差別語の馬鹿な時代
したがって 「馬鹿」とタイトルが
付いただけでバカ売れベストセラーが出る
馬鹿馬鹿しい時代である

私の知る「馬鹿の」最高傑作は
浪曲ヒロサワトラゾー・モリノイシマツ
『馬鹿は死ななきゃ治らない』の名文句
一世を風靡 今なおトップをいく造語である

「馬鹿な性分」
A死ぬまで ナオラナイ
B死ななきゃ治らない
C死んでも治らない
の3ランクがある
私は間違いなくそのランクの
いずれかに属する

不測の事態 江戸弁なら 死ヌカモシレネエ
と医師から告げられて 病院内の理髪室へ
出向いた
狭い室内の2脚のイスに座ると
若い理容師さんが
「ちょっとお待ちください」
と言って席を外し
電話の受話器を取り上げて
いささかチグハグなアクセントで
「はい床屋さんです」と答えて
外へ女性職員を呼びに行き
その人を介して話を始める
電話を切ると 
また同じことの繰り返しが
3度ほど続いた

やっと私の後ろに立った理容師さん
「ごめんなさい 私」と言いながら
自分の左右の耳を鏡に映して見せて
「生まれたときから難聴なのです」
見るとなるほど 両耳に補聴器がはめてあった
「今もお客さんの話がなかなか
聞こえないので困るときがあるし
これからだんだん年をとって
なお聞こえなくなると
ほんとに困ります」と言った

それでもポツポツと 職場のこと
本店が東大近くにあることなどを話し続けた
そしてもう一度
「歳をとって 聞こえなくなると
困りますよね お客さん」と言った
私は
『お兄さん 長崎生まれでしょ?』と聞いた
彼はびっくりしたような顔で
「分かりますか?」と答えた
『分かるよ 長崎生まれだし
良い耳を
持っている人だと思うよ』
と言うと
彼は一瞬戸惑ったような顔で
「それなんですか?」
と聞き返した

『耳の種類にさあ 聞く耳持たない耳
馬の耳に念仏っていう耳
があるでしょう?
それに比べると君は 小さい時から
いつも人の言うことを よく聞こう聞こう
よく聞こうと
熱心だから 生まれた土地の長崎弁に
なっているし 今も人の話を
良く聞く いい耳じゃない』
と言ったら
しばし かみそりを止めて
一瞬黙ったあと 
ふうっと大きな息をつきながら
「そうですか」と言った

その後 例によって例のごとく
私のオセッカイが始まった

鏡に向かって「アイウエオ」と言ってみせて
『ほらやってみな』
『ほら大きな口を明けて ほらもう一度
ほらお腹から声を出して』
『ほらできるじゃん』
『出来たよう』
と言ったら
カミソリを持つ手が一段とスムーズに
なったようだった

アイウエオ五十音を終わる頃には
剃り手の手が時々休憩をして
時間がかかったが 私のレッスンほぼ完了

“難しいのはやはり カ行”
彼の希望で「お客さん」の発音練習
“お”は簡単にできた
“きゃ”が問題であった
ケンカするときのネコの真似
『ニャオー』と口を左右に引っ張って
鏡に向かって バカな私は
ネコの鳴き真似をしてみせた
お兄ちゃん 笑いもしないで
「ニャー」とやった
そこですかざず私は
『キャットのキャ やってみな』
『ほ~らできた』

続いてクである
簡単直截に教授することにした
チュっというキスよりは
もうちょっと深い首を曲げてやるキス?!
ポーズで「く」と教えたら
彼は
「ボクは23歳なので まだヨクワカリマセン」
という話だった
いずれにしても“お客さん”は
見事完成である

ツルツルに剃り上がった私に向かって
彼は
「お客さん5250円です」
と言った
“お客さん”は完成度90点
残念ながら“ヒャク”の発音が
未だしであったが
私の迎えの車椅子が来てしまった
23歳理容師のお兄さん
「お客さん ありがとうございます
また来てください」
と言った

あれからからほぼ一ヶ月
10cmほど伸びた髪の毛に触って
このいきさつを皆に話しながら
『またツルツルになりに行こうかナ』
と言った

さて 私の性分は“ABC”
いずれのランクになるのか?
私自身の次なる
不測の事態の前に知りたいものである

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健在 ひらさわ節Ⅱ (2)

御手洗い・はばかり ・おちょうず・・・・・・
いずれもトイレ お通じ(便通)
お小水(小便)おしも又は しも は泌尿器
いずれも含羞を含んだ言葉
やさしく柔らかな日本語であるが
コレ以下は しも の話になる
御容赦頂きたい

八月四日の手術後遺症で下半身が全くマヒ
したがってお通じはゼロ
四、五日に一度浣腸をするのだが
浣腸液+ホンノチョット
あとは 看護婦さんの掻き出しと称する
[強引な手法]に頼り
その都度疲労困ぱい 心身ともに落ち込む

毎度若い担当医の先生
「INが無ければONが無い
沢山食べて下さい」との所見
ダガ私は異論アリ
ニワトリとタマゴ論争かもしれぬが
『ONが無ければINが無い 食べられぬ』
との方程式が私の私見である
満員電車降りる人無キャ
乗ること出来ヌが 私見 コレ正論

緩下剤・下剤・整腸剤・漢方薬
いずれの処方も効かぬ
キカヌ筈 胃腸内臓の問題でなく
首のスイッチOFFが問題なのだ
首のスイッチONになれば
諸事解決の筈である

車椅子の生活迄は止むを得ぬとしても
『しも』自分で出来ないのは
人間の生き方の尊厳に係わると言ったら
幼友達のA子さん
「あまり厳しく考えないで」
と言って涙ぐまれた
モト居候の現二人の子持ちのS子ちゃん
「シンパイナイ心配ない
私が2日おきに
カンチョウをやりに行くから」
片道2時間半かけて出張浣腸?
洒落にもナラヌ
と言いかけてヤメタ・・・・・・アリガタイ
『お通じがつかなかったら
窓カラトビオリル』と言ったら
女医のI先生
「その時は私が全力で阻止します」と仰った

看護婦さん2人がやって来た
「今日は 頑張れるだけところまで
頑張りましょう」
左右に立ったお二人の看護婦さんが
私のお腹を押す 揉む さする
室温20℃設定だが 看護婦さんが
うっすらと 汗をかいて30分」
「平澤さん まだ頑張れる?」と聞かれた
『頑張ります』と我ながら情けない声で
答えた
そしてさらに十数分
「平澤さん お産と一緒よ
大きな息を吸って大きく吐いて
はい もう少し頑張って」と元気づけられた

ニャロメ 私は男だ
『オちんちんが目に入らぬか』と言い
啖呵を切りたいところだが
私も額から首から脂汗がにじみ出た

やがてお二人の看護婦さん 同時に
「やったあ!」と歓声を上げた
第一子 無事人差し指大がご出産
さらに頑張ったが三つ子ちゃん出産までで
三者とも 精魂尽き果てた

翌日午後十時頃お通じの感覚があった
思い切ってガタガタの身体を
車椅子でトイレへ運んで頂いた
便器に座り続けて約30分・・・・・・
マタダメカと思いつつさらに10分位!
尿意お通じともに感覚ゼロ・・・・・・
呼び出しベルを押した
やって来た看護婦さんが
「デテルワヨオー」と言われて見つめた
可愛いウンチ 幾つもが浮かんでた

『記念写真撮りたい』と言った
本心そう思った 心底そう思った

(つづく)   聞き書き K

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秋の一日 ~江成より~

 「やあ、いらっしゃい」。
 ベッドの上から聞こえてきた第一声には張りがあった。何年も前から聞いてきた声、トーンがちっとも変わっていない。お会いするまでの不安は払拭された。自然と、嬉しさがこみ上げてきた。

 9月28日、平澤さんの入院している病院を訪ねた。ちょうど、リハビリの最中。しばらく廊下で待っていたが、医師と平澤さんの会話が漏れ聞こえてくる。話の内容から察するに、不自由になった下半身が正常に戻るまでにはまだ時間がかかりそうだ。ただし、回復に向かっているいることだけは確かなのだろう。「歩いて外へ出てみましょうか」という医師の言葉が聞こえてきた。
 医師に支えられて、ベッドから起き上がった。ちょっときつそうだが、半歩ずつすり足で進む。病室から廊下へ出ると、時折足が止まる。腰の帯を持つ医師の手にグッと力が入る。「頭にズキーンときます」「アッ、やばいかな」。苦しそうだが、新たなリハビリの段階を迎え、懸命に歩こうとしている。普段、生活をしているときなら何でもない「歩く」という行為が、今は目標と化した。前向きの緊張感。体全体がこわばっている。平澤さんのなで肩が、いかり肩になっている。「そんなに体に力を入れてはダメ。フッ、フッと息を吐くようにね」。医師の言葉に従い、息の吐き方を変えてみたら、少し歩がしっかりしてきた。
 約20メートルの廊下を歩くのに、10分ぐらいかかったかもしれない。でも、距離も時間もこの際問題ではない。自分の足で道を踏みしめ、前に進めたということが何よりの喜びだ。終わったときに、平澤さんの顔に笑みが浮かんだ。医師もこう言った。「しばらく歩いていないと、ひざがガクッとしたりするものだが、それがなかった。しっかりしている。思っていたよりずっといいですね」と。

 医師が病室から出て、ようやく二人きりになれた。由紀さおりさんからの花が飾られた病室で、5時過ぎまでの約2時間、いろいろなことを話した。次から次へと話題が弾む。相変わらず饒舌だ。「これまでに10数回しか会ってないと思うのですが、何でも話せてしまう。不思議ですね」。私もそう思っている。人の付き合いの深さは、頻度ではなく、互いの信頼を含めた心のうちにある。本音での対話に、改めてそう実感した。

 そして、別れ際に私の感想を本音で言った。「平澤さんの目に勢いを感じました」。「そうですか」とちょっぴり照れた子供のように目を細めた。懸命のリハビリを見て、笑顔も見ることができた素晴らしい秋の一日に感謝した。

江成

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健在 ひらさわ節Ⅱ  (1)

病室の中からは 感じ取れぬが
朝夕秋とのことだ
毎週 日曜日木曜日になると
決まって見舞いというべきか
看護というべきか 千葉から2時間半かけて
モト居候 現職歯医者のK君がやって来る

9月7日木曜日
蒸し暑かったとみえて
汗びっしょりのK君が 昼食前にやって来た
「ゴメンゴメン 今日は何にも
買ってこなかった
昨日だいぶ調子が悪かったそうだから
鰻にでもする?」と言った
前日私が天井の塵埃が原因の
アレルギー喘息で一日中咳き込み
毎食事抜き ヨーグルト1個のみで
過ごしていたことを
彼らしく事前に看護婦さんから
電話取材?をしてきたらしい
「マッタク ナンニモ タベタクナイ」
と答えると K君冷蔵庫を開けて
「ゴディバのチョコレートが
手つかずであるよ」
と言われて思い出した

入院前日 お得意様のTさんの
お嬢さんにいただいたものだ
お嬢さんというのは やや失礼で
本当は 5才の男の子がいらっしゃる若奥様
タダ 私は高校生の頃からのお得意様で
未だに 奥様と言い換えができずにいる方だ
「お見舞いには行きませんので
これ召し上がってください」
「御入用なら お店へお届けしますので
必ず元気で早く戻ってきてください」
とTさんのお嬢さんに
下町っ子らしい粋な言葉で
元気付けられたのを思い起した

一週間前の8月31日
K君に支えられて そろり起き上がって
しみじみとした思いで 彼に告白した
いささかに恐縮な話ではあるが
8月4日の手術以来 下半身マヒにより
時に浣腸しても 便通がまったくなく
出るものは 浣腸液プラスほんのちょっとの
プラスアルファの苦しみだった

その日の夕刻 ほんのわずかな便意を感じて
看護婦さんに便器をあてていただいた
10分過ぎ 15分過ぎ まったく反応がない
またしばらくすると 看護婦さんが
「30分過ぎたわよ。
頑張らないでまた明日にする?」
と心配そうに声をかけてくれた

さらに10分後 看護婦さんが顔を出して
「約1時間だわよ まだ頑張れる?
大丈夫?」と声をかけてくれた
そしてさらにまた時間が過ぎていくようだ

無感覚のはずの おしりがギリギリと痛い
誠に変な言い方 ココがフンバリドコロナノダ と頑張ったが ダメ
また看護婦さんが来た
同じ言い方で声をかけてくれて
「そろそろ限界 あまり頑張らずにね」
と言って去った

出ない かすむように妄想が湧いた
左腕に2本の点滴 右方に尿道からの尿管
このままゴロリと一回転をすれば
ベッドから落下して
一巻の終わり セイセイスルと思った
曲がらぬ首を回してみると
ドアの外のカーテンの下にK君の靴が見えた
黙って約1時間 廊下で私を
見守ってくれていたのだ
それを見て私は大きな吐息をついて
「今日はやめやめ Kくん
アイツにだけは
無残な死に顔を見せたくない」
と思い直した

かつて 修羅場のような日々を
過ごしたこともあった
泥沼のなかで
這いずり回るような日々もあった
そんなとき吐息のような私の言葉を
受け止めてくれたのは 母とKくんだった
その母はもう亡い

Kくんと母は なぜか気の合う交流があった
見知らぬ人が母にKくんのことを
「息子さんですか? お孫さんですか?」
と聞くと母はいつもニコニコ笑って
答えないのが常であった
Kくんの博士論文の折 婚約結納の折
それから結婚式の折 母は母らしい
精一杯の智慧を働かせたものだ

母が 終末の入院の折 Kくんは三日三晩
病院に泊まり込んでくれた
四日目の朝 私が
「オフクロが目を覚ましたら
きっと若先生 お仕事はどうなさったの?
と聞くはずだ」
と言うと Kくんは 母の額を撫でて
やっと帰って行った
十四日後 母が亡くなった
通夜 告別式の後 火葬場で棺を覆うとき
周囲の人すべてが駆け寄って
泣きじゃくっているとき
ふと見ると Kくんは5~6m離れて
ただ立ち尽くしていた
そして 棺が塞がれると同時に
Kくんは声を出さずに
大粒の涙をボロボロと流したものだ

やっぱりオレもオフクロと同じように
いつか先逝くとき Kくんには
安らかな顔で
別れを告げなければならない……

(つづく)

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