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2006年6月

整形外科部長先生

整形外科部長 先生
整形外科スタッフ ご一同様

この度は 検査入院中を ご親身に
お取り計らい下さいまして
心にしみて ありがたく存じております
退院時に {素敵な女性たちに囲まれた
私の素敵な六日間}と
御礼の言葉を申し上げて
同室の方々に笑われましたが 
幾分か 私流儀の「ジョーク」を
交えてはおりましたが 本心私は
部長先生をリーダーに 勇将のもと
弱卒なく 明るく働かれる
素敵なスタッフの皆様であることに
感銘をいたしての退院でした

しばらく以前 
部長先生が 私の手術を
「迷っている」と仰って下さいました
私は胸打つ思いで
その お言葉を受け止めました
何百人かの患者さんの中の一人
何百分の一の存在でもある私を
真摯に考えての証しと
そのお言葉を心にきざみつけたものでした

退院三日前 私は
ぎりぎりの所用をかかえており
退院或いは外出の お願いをして
婦長さんにお叱りを受けました
「あなたのお身体のためにダメです」と
まさに 明快に そこには
真の医療ありと 感じ入りました

医療の荒廃が叫ばれて久しい昨今ですが
医療の現場に限らずです 
働くことに 働き甲斐を 見出せれば
自らも 人をも 幸せに出来るのだと
私は 身近な若者たちに
言い続けております
いささか
ウルサイオジサンではアリマス!が

おかげさまで 

帰宅数分後 日刊ゲンダイから
取材申し入れがありました
即引き受けました 夕方までの二時間半は
疲れましたが ゲンキ でした
取材目的は一昨年
ひらさわオリジナルとして 売り出した
『ゆかたアロハ』『きものアロハ』
についてでした 
二十四日特集に
『ひらさわ』が掲載されました

翌日 翌々日と朝日新聞 毎日新聞 の
取材も こなしました
数日中には 紙面に なると思います
三年前 私の思いつきで はじまった
『ゆかた着てサッカー観戦 4千人大集合』
の宣伝がやっと一段落
ほっといたしております

それも これも 部長先生はじめ 

スタッフ皆様から背を押されての
頑張りなのだと
心から 感謝をいたしております

ほんとうに ありがとうございました

十八年六月二十五日     平澤建二

追伸 
未だに 両手が凍りついたように痺れ
打ち込みが思うようでなく
ご挨拶が 遅れました

あるじ 東京警察病院に検査入院

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あるじへの賛歌2

 「戻って参りました」。21日、ブログのあるじから電話があった。6日間の検査入院を終え、退院したという。受話器から聞こえる声は元気そのもので、普段とまったく変わらぬ口調にホッとした。

 が、話の内容は過酷を極めていた。「お医者様からは、検査の所見が予想以上に悪い。すぐに手術をした方がいい、とも言われましてね」「入院中、足のしびれや麻痺が急速に下半身からみぞおちあたりにまで上がってきまして」「深夜、血圧が急降下。脳髄が締め上げられるような痛みとともに、握力が幼児並みに低下したりしました」
 入院が予定より4日間延びたとのこと。帰宅を頼んだら「婦長さんから、食事が食べられない、車椅子から立ち上がれない方を退院させられないと叱られました」「ステンレスで支えている頚椎のすぐ上の神経が三分の一位の細さになっている最悪の状態。その上、腰椎もかなりやられていたり、左肺は6センチ位無くなっているし」「満身創痍」...。

 どんな時でも自分の感情を相手に見せない、というのは、商売人の性。呉服屋で育ったあるじには、子供のころから喜怒哀楽を胸にしまっておく習性が身にしみついている。検査結果を聞かされた時、がっかりとし、そしてむなしかったに違いないが、そんな思いはおくびにも出さない。「これから100年も生きられるのなら、すぐに手術をしてもいいんですがね」と笑いながら言う。相手に心配をかけまいとする、いかにも、あるじらしい気配りだが、逆にそれが悲しく聞こえる。

 さすがに、8月に手術をする決心をしたという。それまでの日々は、生活の基盤となっている呉服屋の今後に目をやりながら、身の回りの対応に精を出すはずだ。手は震え、足も不自由さが増している。だが、やるべきことはたくさんある。「いやあ、20年来の居候をはじめ、多くの人たちが手助けてくれるからうれしいですね」といっても、あるじのことだ。人に任せられないものは、自分をいじめながら、無理して片付けようとするだろう。

 あるじの母親が、かつてあるじを評して言った「いつまでも駄々っ子」の性格が、この期に及んでも変わるはずはない。だったら、今、私をはじめ、あるじに世話になった人たちはどう応対したらいいのか。とんと答えは出てこないが、普段どおりにあるじの機転の利いたしゃれっ気たっぷりの話を聞き、たまにチクリと言い返してやることが一番の薬かも知れない。それだけで、「気配りのあるじ」は、こちらの素直な気持ちを察してくれるはずだから。

(えなり記す)

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あるじへの賛歌1

 どうしても書いておきたいことがあると思い、開設者のあるじに無理言って「暇フロク」の一回分をいただいた。だから、きょうのブログはいつもの洒脱なものとは違い、あるじの知人としてのつたない独り言である。

 「いっときの人生をお預かりします」は、あるじの口癖だ。東京の下町で呉服店を営みながら、信州、白馬をこよなく愛し、思いが高じて岩岳に二軒の宿を持った。当然サービス業である。宿泊客に少しでも満足してもらいたい、という願いは当たり前のことだが、その言葉のさりげなさに思わず「預けてみようか」となる。

 気配り、気遣い、心配りを見せるのは、決して客に対してだけではない。宿が多忙になる時期は「居候」と称する臨時アルバイトの若者を雇う。これまで、どれだけ多くの若者があるじと寝食をともにしたことか。しかも主従関係を越え、若者の悩みを親身になって聴いては適切なアドバイスを送ったり助力をしたりしている。10年20年経った今でもたくさんの「居候」があるじを尋ねてくるのは、深い人間関係を築いてきたあかしでもある。

 それほど頼りにされ、他人に決して弱みを見せなかったあるじが、最近心なしか気弱になっている。平成元年に遭遇した交通事故の後遺症で、首の再手術を余儀なくされたことが原因だ。
 18年前、首の骨をばらばらにして腰の骨を3ヵ所に移植。ステンレス版でネジ止めする大手術。入院半年以上の後、懸命のリハビリ、通院の繰り返しで約3年後に奇跡的に回復した。しかし、頭から体への指令を届ける首への負担は、金属疲労のように年月とともに容赦なく襲ってきた。字を書けないほどの手の痺れが、限界である。「再手術を受けようと思っております」。迷った挙句の結論だった。
 今は、医者にすべてを託す覚悟ができた。ただ、難解な手術であることには変わりない。伝統を築いてきた呉服店の今後や術後の自らの人生を考えたとき、不安がふっと頭をもちあげる、という。

 あるじの愛する白馬は今冬、例年にない大雪に見舞われた。その雪もすっかりなくなり、木々の草花、山菜がわがもの顔に育っている。雪の重みに耐えながら、それでもしっかり生命をともし続けた自然の強さに、何にも勝る息吹を感じる。
「冬来たりなば 春遠からじ」
まるであるじへのメッセージを伝えるかのように花が、木が、鳥が唄っている。

(えなり記す)


----追記----
あるじは本日、医者にすべてを託した

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乱暴な言葉 粋な言葉(5)-ふたりの神様-

十七島田 下町娘は18才になると
日本髪 初島田の髷を結った
いわば 成人式ともいえる お披露目である
俗にいう「娘十八 番茶も出花」
ということだ
誕生日を祝う風習は 無かった大正時代だが

5月1日生まれの(母)は
十七島田を 五月に結っての【 初島田 】
紫色の花がとても好きな(母)トミちゃんは
初島田を結う その日に 出来たらなぁ~と
ひそかに 胸のなかで願掛けのような
想いがあった ~そうだ

初島田で 藤の花の名所 亀戸の天神様に
行きたいゎ』
そう  それを 思い切って
マッサンに頼んだら
「遠回りで 時間もかかるけど
やりくりして 思い切って行こうょ」
と ふたり たのしい
逢瀬(デート)と なった

『藤の花 綺麗だし そりゃ
とっても良かったけれど』
『あとで大変な思いして』 と
母は 90才近くなって 溜め息のように
語ったものだ

帰宅して ヤリクリデートの超過時間?の
言い訳を ドーショウと
口ごもっているうちに
祖母の 切れの良い ひと声が飛んできた
「トミコォー たぼ(後ろの髷)に
フジの花がついてるょ」

『よぉく考えてみりゃ』と 母 
『ふふふ』と笑いながら
『おぼこ だゎょネ 』と言った
『藤の花に 天神様のシルシが
付いてるって ワケじゃぁ ないんだから』
『ねぇ そうでしょ』
『思い出したら可笑しぃ』 と
母は クスリと笑ったものだ

祖母の注意は ホコリがついてるょ
-そのテイド- の事だったのだ  

だが シカシ 

スネにキズ持つ母?トミは
父マッサンとのことが バレタカ 
モウダメカト 
心臓が柱時計のように キンコン キンコン
鳴り出して 何時叱られるのか
これで もう駄目
ふたりの仲はオシマイなんだと 
数日間は 食事が喉を通らなかったそうだ

母の昔語り~ その話を聞いて
「神話ミタイ」「童話ナンジャン」と
孫娘二人 私の姪が言ったものだ
「スクナクトモ 漫画じゃぁ ないね」と
私が言うと 
母は その時 小首かしげ
片目をパッチリ 微笑んだ

(終)

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乱暴な言葉 粋な言葉(4) -恋や愛の重さ-

好いたらしい仲 ほのかな恋心から
好いた仲 恋愛関係 とはいっても大正時代
暖簾分け以前の番頭と 御出入り先の
お嬢さんでは 身分違い 
親が絶対許しはしない
のれんわけが出来たら(独立したら)
もらいに行こう(結婚申し込み)が
暗黙二人の約束で
逢瀬(デート)を重ねていたらしい が
問題は 二人極秘の連絡方法についてである
当たり前だがケイタイも公衆電話もない
時代のことだ
ご町内の二、三軒にはあった電話が
母の自宅にもあるにはあったが
当時の電話は 家中鳴り響くほどの
大きな声を張り上げて
「モォーシ モぉーシ」とやったらしい
従って ナイショのハナシは
絶対無理!なのだ

母の家に商いに来た マッサン
お納め品の帳付けに
「お嬢さん すずりを お貸し下さい」と
(母)トミちゃんは 硯の乾いた部分に
(タトエバ)五日二時と書いて
(父)マッサンに渡す
マッサン何食わぬ顔で 墨をすれば
ショウコインメツ デートの打ち合わせ
完了と相成る
逢瀬(おうせ)は 浅草の梅園
甘味処にきめてあったという

トミちゃんは お稽古時間のヤリクリ
マッサンは 営業外回りのヤリクリだから
デートの時間は せいぜい30分が限度で
言問橋か駒形橋を一緒に渡って帰ったそうだ
一緒と言っても 手をつなぎ
肩寄せあってではない 
母トミちゃんが 一丁(約80メートル)
先方を歩く
父マッサンは 自転車降りて後から歩く
~橋の坂道がアリバイであったかも
知れない~  振り向いてコックリ
頭をさげて の 別れ
それは 切ない しかし 胸弾むような
出逢い(デート) であったのだろう

メールで何時でもつながる恋
ケイタイでいつでもつながる恋
恋までもが デジタルで 簡略になった

そして そのぶん 恋も愛も
軽ぁるくなってしまったようだ

(つづく)

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乱暴な言葉 粋な言葉(3)

かってであるが 学校へ 入学を=上がる
中途退学を=下がる と言った
今でも下町では 小学校へ上がると言うが
下がるは実態上 ほとんど死語だろう

明治生まれの私の父は 幼時に父親を亡くし
生家が没落 祖母の手で育てられて
尋常小学校4年で ガッコをサガッテ
呉服屋に丁稚奉公に出された
10才前後だが 明治、大正のころ それは
ごくありふれた生活環境だったと言う
ただ10才位の子に 何か大事な仕事が
出来る訳はない 
トリアエズ 使い走りや荷の出し入れを
さっさと急げとコキツカワレ 
アチコチを駈けずり廻る事から
仕込まれ教育された
つまりは 新人を【 駆け出し 】という
由来のようでもある

丁稚奉公1年目 追い廻しといって
休暇給金{サラリー}無しで 朝5時起床
夜10時迄 店仕事
それから1時間半ほど みっちり読み書き
ソロバンの稽古
その小僧見習い 当人の根性 性格 性質が
見込み無しとされたらなら
即リストラ 実家に帰され ニート、
フリーター、への 逃げ道もナシデアル

2年目から小僧で 名前の下に
ドンが付き 私の父は 政司なので
マサドンと呼ばれる
休日休暇 一年間に 盆と正月に
薮入り4日間 お給金は
現代に直して3~5千円 
断っておくが3~5千円は 年俸!である
三食付きだが 昼寝ナドもっての他で
お味噌汁は 金魚が飼えるほど
薄かったとは後年父のナゲキ節 !
食事カッコミ急いで食べろ
早メシ早グソ仕事の内―と息つく暇ナシ
7~8年を経て
マッサンと呼ばれるようになると
外回り 言わば営業マンになれる

自転車の荷台に ボテと称する
縦横60×45㎝深さ60㎝位の
和紙張りの竹篭 漆塗りの箱に
呉服反物を入れて お得意様廻りだが
当初は 安価な日用品的な
品揃いであるらしい
面白いことに ノルマと言うべきものが
売り上げ高よりも 何軒
お客様宅に伺ったかに
重点が置かれたらしい

― 商いの基本に まず 人のつながりを
重視したのだろう ―
心すべきことではある
お得意先の娘さん と
お出入り呉服屋の駆け出し番頭 
出会い と 馴れ初め 
それが 私の 父と母の
10年越しの恋のはじまりだった


(つづく)

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