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2006年5月

乱暴な言葉 粋な言葉(2)

かやぶき茶屋 古民家百年の空間
寂とした しじまの中    
かすかにいろり火の はぜる音
庭先 雪解け水の せせらぎの音 
吹き抜け四階層 森閑とした天気漂う
昔古板のステージから
六十畳の大座敷においでの
五十人ほどのお客様に むかい 私は
聞き伝えの 母の思い出を
語り継がせていただいた

母は 東京の下町 本所の生まれ  

【下町には それぞれな成り立ちがある
浅草上野の歓楽地 向島などの花柳界
一葉たけくらべの吉原三ノ輪
本所は藤沢周平しぐれ物語 浅草までは
墨田川をはさんで一里半
隅田川に架かる橋 三つ

君は今 駒形あたり ほとときす
駒形橋

名にし負わば いざ言問わん 都鳥
言問橋

東橋=吾妻 そばに私(渡し)も
付いている    吾妻橋 は 当初
渡し船と共用だったそうだ
その昔 橋の名付け親も 粋であった
 

母 とみ には 兄 妹 がいた  
祖父(母の父 郵便局のお偉いさん)曰く
「兄ぃ 男の頭磨きは 学校が一番だぞ」
「とみ子お前は頭が良いから
学校へは行かないで お稽古しなさい」
「雪江お前は頭が悪い 上の学校へ
上がりなさい」と常々言ったそうだ
奇妙な言い方だが 明治の人の
学校教育観が面白い

祖母(母の母 小間物屋=
今ならアクセサリーショップを商ってた)に
「お琴を習いたい」と言ったら
『おまえ何様のつもりだい 御琴は
お屋敷のお嬢様のたしなみだょ』
と一蹴され 長唄 三味線 お裁縫の
毎日稽古(1日15日のみ休み)に
浅草まで 通うことになった

これまた
分限 身の程 という 明治の人の
適所に生きる知恵が うかがえて興味深い
親のいうことに逆らう時代ではない

父と母 馴れ初めという出会いから
嫁入りまでに  親の目を忍んで
約10年かかった そうな!】

(つづく)

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父に詫びねばならない 其ノ3

江戸っ子も浪速っ子も博多っ子も
沖縄だって北海道の人だって
日本人なら忘れちゃぁならない 日
毎年 確実に 訪れる 日
下町爆撃1945年3月10日8万人死亡
山の手爆撃5月25日7千人死亡
それだけに飽き足らず
カーチス・ルメイは「核兵器」という新戦法を
立案した

すべての日本人に捧げる 鎮魂歌
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「おじちゃんの ブログ読んで
泣いちゃった」と
ズボンドズボンのボーカル
黒崎純子ちゃんから電話があった

「思い通りの事を 書けますよ」
とタケウチ君に 背を押されて
手に余るブログをはじめた
過半の理由は この父への詫び状だ 

「ピカドンも酷いけど
火あぶりで殺すのも非道じゃないか
女子供と年寄りだけの下町に
真夜中 照明弾で明るくして
焼夷弾で焼き尽くす
いくら戦争でも これはむごい 惨過ぎる」
と 父は 歯噛みして 言葉を吐きだした
母の団扇は ピタリと止まって
大粒の涙を受けていた
「建二!」まじまじと私に顔を向け
父は絞りだすように言った
「親の仇も同然だ 憶えていてくれ」
「この空襲は
ルメイ将軍という男の発案だ」
その時 男泣きという泣き方を
生まれてはじめて  私は実感をした

半世紀余 茫漠と 
しかし忘れてはいなかった ルメイ
今年3月 新聞紙上に
東京大空襲60年の特集が掲載され
「ルメイ」の文字があった
紙面を凝然と 読み進むうちに
私は 血が逆流するほどに呆然として
身体が 震えた
「ルメイ」に 日本政府が
勲章を与えていたと書かれてあった

後日
『ルメイ氏の日本航空自衛隊育成の
功労に由る』と知った
あろうことか『勲一等旭日大綬章』を
贈ったとも知った 
思わず
「恥知らずっ!」
私はひとりで怒鳴った
私は 父の焔のような 恨や憤りを
まるごと引継ぎはしない
しかし 父の世代の受けた
断末の苦しみを そのままにして
いかなる経緯にもせよ
勲章を与えた政治家を許したくはない
そして この勲章の異様さを見過ごす
メディアや 世間や 日本人とは
一体 何なのか!
と 痛惜な思いも抱いている

今 私それ自身 逃げずに 
父に 詫びねばならぬ 
詫びるべき言葉を 探しあぐねている

(終)


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父に詫びねばならない 其ノ2

江戸っ子も浪速っ子も博多っ子も
沖縄だって北海道の人だって
日本人なら忘れちゃぁならない 日
毎年 確実に 訪れる 日
下町爆撃1945年3月10日8万人死亡
山の手爆撃5月25日7千人死亡
それだけに飽き足らず
カーチス・ルメイは「核兵器」という新戦法を
立案した

すべての日本人に捧げる 鎮魂歌
-----------------------------

昭和20年3月10日 アメリカ空軍による
東京大空襲は 
下町の木造住宅密集地を 狙い打ちにして
死者10万人を超えた
死者の圧倒的多数は 焼死であった

父は その日未明 自宅から
約200メートル先での 類焼が収まると
すぐさま 浅草界隈の下職さん
(染物屋 紋屋 仕立屋さん)たちの
安否を尋ねて 自転車で出掛けたのだが
向島から浅草へ 隅田川を渡る橋の
何れもが 容易に通れなかったと言う

「ご遺体 死体だなんて
生易しいもんじゃない」 

「まっ黒焦げのホトケさんが
よけようもなく一杯なんで・・・」

自転車を担ぎ上げた父は
「ごめんなさいよ なんまんだぶ
ごめんなさいよ なんまんだぶ」

と言いつつ歩いたそうだ

「キリで 心臓に穴開けられるように
切なくて 切なくて」

父は その時の 我が身の無力さを恥じて
口惜しがった 
そして ぶるっと 身を震わせ
「おんぶとネンネコがいけなかった」
と言った
母親達は赤子や幼児を
綿入れのねんねこで背負って必死に逃げた

だが その綿入れに 火が付いて
幼子が焼死 母親が生き残った 
背中の子が 機銃掃射の盾となって
母親が生き残った

「死ぬも地獄生きるも地獄 惨い」
とうめく様に 父は言った

(其ノ3へ)


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父に詫びねばならない 其ノ1

江戸っ子も浪速っ子も博多っ子も
沖縄だって北海道の人だって
日本人なら忘れちゃぁならない 日
毎年 確実に 訪れる 日
下町爆撃1945年3月10日8万人死亡
山の手爆撃5月25日7千人死亡
それだけに飽き足らず
カーチス・ルメイは「核兵器」という新戦法を
立案した

すべての日本人に捧げる 鎮魂歌
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父に 詫びねば ならない
半世紀少し前 正確な年月は
忘れてしまったが
その日の情景は 精緻に記憶している
ぴたりと 風が止んだ夕昏れ 縁側に
父と小山田の小父さんが
大きく枝豆が盛られた 卓袱台を挟んで
話し合っていた
何時もは 賑やかに能弁な父が
言葉を詰まらせているような
緊迫した雰囲気に そっと 傍らを
すり抜けようとした私を 
団扇で風を送っていた母が
手招きで ここに座れと合図した

小父さんは 真っ赤に充血した目に
涙を滲ませて語っていた
シベリヤ抑留の捕虜の頃
過酷な労働と餓えで 死んだ友人を
埋葬すべく凍土が硬く
小父さん自身のひもじさ 力足らずが
遺体を 浅くしか掘らずに 埋葬をした
成仏出来たろうかと

その事が その事が
無念な心残りなのだと 絶句していた
おじさんの手は 自身の膝に
爪を立てるように 震えていた

ややあって 父が
内地でも 酷かったんだと 話し出した
3月10日の「東京大空襲」のことだった

(其ノ2へ)


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乱暴な言葉 粋な言葉(1)

迫り来る 白馬三山 真っ白な残雪
煌き輝く 山稜の雄姿
いつ見ても素晴らしい 五月の白馬
息のむ壮麗な 北アルプスの山々を
ご同行の方々の嘆声とともに
私はこの日 格別の思いで見つめた 

白馬 わけても初夏の白馬をこよなく愛した
今は亡き「母と妹の しのぶ会」 を
かやぶき茶屋で 行った

東京から 貸し切りバスの旅
五月三日連休初日 渋滞をくぐりぬけると
信州の遅い春が出迎えた
はるかな山々の山頂まで 山桜が満開だった

ペンション到着 目の前 桜並木は
二、三分咲き 
フキノトウ タラノ芽 アブラ菜などは
採り頃で
ワラビは 芽を出しかけている、、、、と
ご婦人方は 目がランランである

『当節 ご年令は 三割引になさいませ』
と生前母が よく口にしていた旅の
華やぎもあり 皆さんお若い!
最年長Mさんも スコブルお元気
『初対面の方に温泉で背中を流して頂いて
道々手をつないで頂いたり』
と目を輝かせていらした
そしてである
『今日明日 娘はイリマセン』ダと
言ってクレマス? ヒトコトオオイ!
?( ウチノハハもソウダッタ! )

しのぶ会での ごあいさつ
ご縁の深いみなさまに甘えて 私は
積年の思いを語らせていただいた 
妹の 『癌告知』
インフォームドコンセントの折の
医師の言葉だ
「あと2年で ダメです」と言われた
ダメと言う言葉 その言い方だ
時に告知 時に情報開示を必要とするだろう
だがしかし『生老病死』
人はみな 人知の及ばぬ大きなものに
命を与えられている 
それは医師をもふくめての話だ
いかに進歩した医学でも
大きなものに逆らって 人を
200才300才まで生かすことは 出来ない
医学といえども
それは 人の小さな知恵のひとつに
過ぎない ~ と 謙虚に思うべきだ 
ダメなどと 乱暴な言葉で
大切な ひとりの人生を 括って欲しくない

と 胸にあった鬱積を 語らせていただいて
涙にじむ思いだった

(つづく)

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言論のカタルシス (3) -原点に還ろう-

'02年
自民党総裁選挙で 劣勢だったコイズミ
(前回2回惨敗)は 
党員票の大票田遺族会への
迎合アッピール「8月15日靖国参拝」
を 打ち上げた 

つまり コイズミは 
靖国参拝を自民党総裁=
総理大臣への道具にしたのだ
彼のいう心とは 野心ということだ
日本では死んだら みんな神様仏様になる
ともコイズミが言った
俗耳に入り易いが ちがう
日本では 極悪人死罪 獄門さらし首
で追求されたのだ

5月3日 憲法記念日
奇しくも60年前の5月3日は
東京裁判が始まった日でもある
戦勝国に依って敗戦国への罪が裁かれた
=その不当さを 声高に論ずるあまり
戦争指導者の 自国民(日本人)に対する
罪 責任を見逃すべきではない
一死大罪を謝す
あの深い反省と潔さを想うべきだ

私達自身が 賢く過去を知り
現在をみつめ 将来を考えること
それだけが この国の未来に繋がる
ただひとつの架け橋だ

コイズミ ワンフレーズに踊った 
或いは 踊らせられた 失われた5年を
取り戻すべくは 
『靖国 問題』が キーワードだと 思う
政治が宗教を利用してはならない
宗教もまた政治的であってはならない
当たり前の原点に還ろう

(終わり)

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