東京大空襲の真実

「戦争体験 未来に語り継ぐ」と題し
3月10日東京大空襲の日は
東京平和記念日なのだと
中学生の投書が新聞に掲載されてあった
一読私は胸詰まらせ
思わず紙面に涙を落とした
本年私は81才
「東京大空襲」の昭和20年3月10日に
私は10才だった

3月9日夜 強風が吹き寒かった
二回か三回か「敵機襲来」の警戒警報が
あったが大事でなく過ぎた
ぐっすり寝込んだ深夜「空襲警報」が
発令され飛び起きた
母は「死なば諸共よ」と空襲警報の都度
私と妹弟に言い聞かせていた言葉を繰り返した

アメリカ空軍B-29爆撃により
東京下町は壊滅し焼野原になった
その頃の 下町には
35才以下の若い男性は全て強制徴兵され
戦場に赴いていた 敢えて言う
その時代の差別語「片輪者と肺病病み」が
銃後=東京に留まれた 昭和19年夏頃から
商店や職人 工員の小父さん達45才迄の男性も
壮年兵として招集されるか
或いは軍需工場に徴用されて
当時東京下町は:女:子供:年寄り:のみが
暮らす 木造家屋密集地で軍事施設は無かった

その下町を 地図で升目に区切り
標的を策定したアメリカ空軍が
低空飛行で襲来した
B-29戦闘爆撃機は低空飛行で威嚇し
照明弾曳光弾を投下した
暗闇を逃げ惑う人々は
真昼の明るさに晒され凝然と立ちすくんだが
そこを狙ってアメリカ空軍は 絨毯爆撃
爆弾投下で殺傷し 次に焼夷弾投下
(木造家屋火災目的=黄燐油脂)で
人々を焼き殺した 

更にダメ押し猛煙火災の炎にグリス油脂を
バラマキ 焦熱地獄にした
必死の脱出 逃げ回る残された
わずかな人々に対しても 超低空飛行からの
機銃掃射で 一斉殺戮を行った

私の家は 右方約90㍍ 後方約200㍍の所まで
炎上延焼したが つむじ風が吹き起り
火勢が変化 危うく類焼を免れた

朝方 徴用先軍事工場を爆撃された父が
我家に帰って来たが すぐさま焼き芋2個の
弁当と水筒を持って 浅草の下職さん達
数軒の安否を尋ねて 自転車で出かけた

夕刻 悄然として自宅に戻った父は
一言も語らず床に就き
夜更けに私を叩き起こした
「建二 お前は男なんだから
明日は 一緒に行って見ておけ」と
きっぱりした口調だった

翌朝 父の自転車に二人乗り
隅田川を渡る吾妻橋の袂に着き
自転車を下りて思わず私は
胃を突き抜けるような 嘔吐に見舞われた
ご遺体が無礼ながら 目も鼻も口も
のっぺりと焼けた棒状になったご遺体が
無数に 橋の両側に 覆いも無く
積上げられてあった

私は 嘔吐に続く嘔吐
手ぬぐいの中に 集めた吐瀉物を
欄干から捨てようとすると 
父が「ほとけさまが いなさる」と言って
止めた
隅田川の 河畔あちこちに 死体が 浮かび…
私は ギリギリ ギリギリ ギリギリギリッと
嘔吐をつづけた


昭和20年3月10日東京大空襲の殺戮死者は
10万8千人を超えた 
無辜の市民が 殺され 焼かれた惨劇と
残酷な事実は 今なお 私の記憶に鮮明にある


風化する【東京大空襲】に居たたまれず私は
自らの記憶と思いを重ねて冊子を作り
お知り合いに配りつづけて13年間になります
81才の老躯 車椅子の不自由
力量不足の自らに 苛立つ時もありますが
あの御遺体の方々の 無念さを伝える責務が
同時代を生きた私にあるとの所存です

平成28年3月 平澤建二

| | コメント (0)

東京大空襲番外 ~ 日本人のアイデンティティに問う ~

急告

いささか大上段ですが
あなたが日本国民であるのなら
次の三択のうち一つを選んで
ノートにでも紙にでも
きちんと書いてみてください

「普天間飛行場の代替施設として国が
名護市辺野古に計画している
米軍基地建設のための埋立てについて」
賛成
反対
どちらでもない


と いずれかにご自分の○印を付けて
ご自分の意見を書留め
2月24日沖縄県民の方々の集約された
意見と照合して下さい

もう一度言います
沖縄は日本国です
日本国の辺野古について
意思表示をする事 が
日本人であるあなたの
務めだと私は考えます

【ライオン看板ひらさわ呉服店】
平澤建二

お願いがあります
あなたのご意見を直に平澤へ
お伝えいただければ
85才私の想いが晴れます

| | コメント (0)

毒蝮三太夫様 石井伊吉様

Photo_3

ジジイよりババアが喜ぶ色紙かな
オソマツ
ケッコー人の役に立ってるんですね
戦争思い出す美味なるオヤキも懐かしい限りです
又々元気になります
カゼお気をつけて…


毒蝮三太夫様
石井伊吉様

いつもながらご丁寧な
そして筆マメに感銘をいたしております
いささかなお贈り“おやき”を御葉書に
「戦争を思い出す」と形容の言葉と
美味なるの語句にひかれました
戦時中の“おやき”は今ほどに美味では
なかったでしょうが 空腹と飢餓の
真っ只中にあって 天与の味だったと
思い出します

例年その年その年
新しくお近づきになった方々に
私の小文をお送りしておりますが
まさに大海での釣りに似た思いで
いささかならず切歯扼腕の思いがあります
発信力あるまむしさんに
今一度お目通し頂いて いずれかの折
東京大空襲を語るよすがとして
頂ければと存じます

今上天皇様が戦中の大切な日と仰言られる
四つの日のなかに 東京大空襲が無く
何故にか東京大空襲が御存念無きかと
不思議とも慮外とも私は考えております
関東大震災の“震災記念堂”に
仮すまいの如く祀られている空襲死者の魂
さらには「国との雇用関係が無し」との
三百代言の司法など 私は日頃
地団駄を踏む想いでおります

信頼措く能わざるまむしさんに
是非空襲死者十万余人の念いを
発信して下さるよう切望致します

旧冬からの風邪ひきが快癒せず
イライラの毎日ですが
まむしさん御夫妻からのお便りに
殊の外 救われております
御夫婦ともお元気に
お過ごしの日を祈ります

平澤建二

| | コメント (0)

人生100年の時代 ~新春 華やかな明治座 【由紀さおり座長公演】~

新春 華やかな明治座
【由紀さおり座長公演】の観劇に
出かけました
ひらさわの御得意様 多勢さま方の
お洒落な魅力いっぱいの きもの姿が
素敵でした

「芸能生活五十周年」由紀さおりさんの
明るい人柄そのままに 華麗な舞台
歌に トークに 絶好調超とも言うべき
満開の桜のような 由紀さおりさん
皆さんが うきうきと 弾み うっとりと
酔いしれた 一夕でした

終演後 胡蝶蘭ずらりを背景に
由紀さんとの写真撮り手短な会話の中で
私は『あちらが 信州白馬の方』
『あちらが 群馬 熊谷の方』と
ご紹介をして
ついでに自分を指さして
『天国への階段踊り場の人』と言ったら
由紀さんにピシャリ
肩を叩かれて「ダーメヨ」と
シカラレタ~~~
「ウンそうだ 来年も舞台を観に来よう」

Photo


93才迄きものひらさわの現役
18年前に亡くなった母が
着物の柄選び際に言っていた
「人生わずか50年は昔の事
当節は人生80才ですから
御年令は6割引になさいませ」


モダンダンスの【山田奈々子さん】
昭和30年代 青春トップスター
山田真二のお姉さま
女性の年令は 言わない聞かないが
山田真二は私の級友親友である

奈々子さんは 改元10連休に 招かれて
渡米 ワークショップ&舞台で
踊られるそうだ

Photo_2


過って60数年前奈々子さんは
当時の鉄のカーテンをくぐり
世界平和青年友好祭で踊った
~東京から新潟迄約一日がかりの時代~
新潟から船でナホトカ迄一日半
ナホトカからシベリア鉄道乗り放しの
14日間 ポーランドで やっと
ホテル一泊だったが(ベットでも
座席スタイルで寝た?トカ)
ポーランドからオーストリア迄一日半
まさに“隔世の感”

ひたむきに踊り続けて
これからも踊り続けて 生かれるだろう

いみじくも 人生100年の時代
到来のようである

| | コメント (0)

迷惑客万来

半世紀以上前 仲の良い高校時代の
旧友の家を訪れた
勝手知ったる他人の家で 一階が事務所
二階が住まいの玄関を開けて
ズカズカ入り込むと 夫婦喧嘩の
真っ最中だった
「くだらないヤキモチ妬くな」VS
「男らしくちゃんと白状すれば!」と
ヒートアップしていた
『ナニナニどうしたの?』と私が
割って入ると
同時に数枚の便箋と封筒が目の前に
叩きつけられた
『ナニナニ ナンダヨ』とキンキン声と
ドスの効いた声で喧嘩の原因が
その封筒にあることが判明した

便箋を読み始めると
“あなたと別れて◯年目 思い出すと
胸が痛く甘く切なくなります…”と
何やら出来の悪い美文調で
恋文のようであった

…………………………………………

受け取った亭主殿は
「そんな女は知らない」と
封筒の裏を見てニベもない
「タノシクスゴシタ林の中 … これ何よ」と
女房殿
双方の怒鳴り声とキンキン声の
空中戦の真下で数枚の手紙の最終を
読んで私は吹き出した
亭主殿女房殿 呆気にとられて
私の顔を見つめた
一番最後の便箋に大きく書かれた文字を
2人に見せた
衆議院議員選挙には是非竹入義勝を
よろしくお願いします
繰り返し二行書かれてあった
封筒の裏に書かれた氏名は
嫁に行って名字が変更になった
『アイツだよ』で一件落着とは
直ちにならなかった
旧友夫婦のフクレッ面はしばし続いていた
後日 平澤建二クンの元へも同じ文章の
手紙が届いた

3年前のことである 店に呼ばれて出ると
見知らぬ中年の男性が「しばらくです」
「お久しぶりです」とトントントンと挨拶
さらに「お宅でご馳走になった鰻の味が
忘れられません」
『??』 私80才過ぎ少々認知症で
チグハグな応答で判明してきた
来客は昭和の時代我が家で
お見合いの席を取り持った都下某市の
(当時)若主人と判明
結論がトントントンと一方的に出てきた
都議会議員選挙には
◯◯◯◯をお願いします
鰻の話も何十年ぶりの訪問も
「都議選◯◯◯◯」がオールだった

今年は統一地方選挙
参院選挙の当たり年
メイワク客多々が応対できない一年に
なりそうだ

| | コメント (0)

昭和の時代の人いきれ ~ 歴史の転換点に想う ~

年の暮の慌ただしさ 新年の賑わい
人いきれする慌ただしさ 
人いきれする賑わい
昭和の頃の【人いきれ】
どこかへか消えた 
シブヤ スクランブルに 乱雑はあるが
人いきれは無い
テレビに ガサツと猥雑はあるが
人いきれの ぬくもりは無い
 
旧冬【12月8日大東亜戦争開戦記念日】
ブログを書きかけで体調が悪化 越年した
酷い咳だが 熱がやや下がり
喉の痛みも薄らぎ 今日は1月6日だ

【昭和16年12月8日】当時数え7才の私に
その日の記憶は ほぼ無いのだが
【12月8日開戦記念日】
とり付かれたように思いついて
調べまくったのが 中学三年
当時私は 登校拒否中で
暇ありの時間だった
聞取りの近所のオジサン達も
記憶に新しい出来事歴史でもあるので
懇切に教えてくれた

【真珠湾攻撃】
「ニイタカヤマノボレ」
【奇襲攻撃】「宣戦布告」 聞けば聞くほど
何とも合点の行かぬ
整合性の無いデキゴト連動の頻発である

開戦時 立役者とでも言うべき
三方がおられる
開戦宣言は【昭和天皇】詔勅により
万世一系皇祖皇宗の名に於いてと
開戦を宣せられた
開戦実務は【東条英機】内閣によって
執り行われ
主要閣僚に【岸信介】商工大臣
(安倍晋三の祖父)がいた

開戦宣言の昭和天皇は
英姿颯爽白馬に乗る
陸海空三軍の長として臣民=国民に
君臨した
開戦主導の東条英機は軍陣訓
「死して虜囚の辱めを受けるな」と
兵士に刷り込んだ
開戦時閣僚の岸信介は
戦犯として捕らえられたが
東京裁判死刑囚の処刑後 釈放された

開戦時立役者が 敗戦後日本を舞台に
どう立ち回れたのか
昭和から平成 平成から次の場面への
転換を前に 検証すべきが
多々あるのではないか

| | コメント (0)

木リン・ゾオ・カバ列車③ ~ 戦争の記憶 ~

6才の私 番頭さんから「木」の字を教わり
「漢字」を書けると大得意 鼻高々だった
「横棒―が地面 地面の上縦棒?が幹
地面下の三本が根っこ」番頭サンの
名講義である
6才頃の記憶は 断片的で
あらかたは後年 父や母から
パズルの様に埋められている

昭和16年秋~12月の深夜
東海道線運行の武器輸送車内訳
木リン=高射砲
ゾオ=大砲
カバ=戦車
記載の文字も数も不正確 
“正”使用が無い111の縦書記帳
即アヤシイ!
外人スパイ!ダ は 飛躍し過ぎだが
憲兵は強圧的に 母と女将を
3時間位取調べた
紛失場所も憲兵隊届けの経緯も
判然とせず 周囲は相互不信
重苦しい雰囲気になった


昭和16年12月8日
昭和天皇 詔勅に依り
大東亜戦争【太平洋戦争】勃発
昭和20年8月15日 昭和天皇 終戦詔書
玉音放送 ポッダム宣言受諾無条件降伏

平成30年12月8日 開戦記念日関係題材
テレビ 新聞 ラジオ 週刊誌 ほぼゼロ
平成30年8月15日 終戦記念日関係題材
テレビ 新聞 ラジオ 週刊誌 盛大溢れ


(店主急激な体調不良のため未完)

| | コメント (0)

木リン・ゾオ・カバ列車② ~ 戦争の記憶 ~

昭和16年当時6才の私は
重度の小児喘息 有名小児科医に
「余命は10才迄」と宣告され
父母は 必死の想いだったようだ
唯一 喘息発作が軽くなるのは
【転地療養】だったが
同じ所に3週間位過ごすと
発作がぶり返す
冬の定宿熱海から伊豆山へ
或いは来宮へと 2~3日間
ジプシー転地後 また定宿熱海へを
繰り返していた

16年の晩秋 熱海の宿で
特別の計らいを女将が考えてくれた
夜間の寝床で発作を起こす私に
宿の階段踊り場に 陶製アンカと小机
絵本を用意して 一晩中 踊り場の窓から
夜行の蒸気機関車を眺めたり
ウトウト寝たりは 如何かと?
狙いは的中!?だった
大好きな「本を読む」
「汽車ポッポを見る」事で 気持が安まる
喘息発作の起因
子供心の強迫観念も有で― 
夜寝ると発作が起きるのが
―解消されて 毎晩 夜ょ来い(^^♪♪
夜ょ来いの気分になった

幾晩目かの深夜 線路を照らす灯りが
すうーっと半減し 貨物の無蓋車が
ゆっくりと 熱海駅直近で停車した

薄明りを目を凝らし よく見ると
キリンと象とカバに シートが
掛けられているようだ
ゆっくりと麒麟 象 河馬列車が動き出す
ほどなく 次々と 麒麟 象 河馬列車が
暗闇から ゆったり来る 
~ 幼な心の好奇心をソソルのに
十二分なスリル感があった

後日談である ほの暗い暗闇
夜行列車終了後運行
無蓋車の 麒麟に見えたのは高射砲
象は大砲 河馬は戦車
それぞれが積載されシートを掛けた
兵器輸送車だったのだ

母にも宿のおばちゃんにも内緒
イッパイ来る麒麟象河馬の数を
帳面に書く事に決めた
帳面には 麒麟=木リン
象=ゾオ 河馬=カバアと書いたが
積算に正の字使用は無知 11111を
並べる書き方で 毎晩大満足だった
だが 私の【宝物帳面】が紛失した
内緒にしてた母にも 宿のおばちゃんにも
打ち明けたが
【宝物帳面】は行方不明??!??

ゲンキンナモンデ その晩から
マタマタ喘息発作再発~~~
コマッタ コマッタの状況下
数日後【ワタシの宝物帳面】が発見された
だが しかしである ソノ【宝物帳面】は
憲兵隊に保存されてあるとの事
宿には「帳面持主出頭命令」を告げに
警察官が来た 昭和16年11月だった

昭和16年12月8日大東亜戦争開戦
後年名称「太平洋戦争」
「第二次世界大戦」

(つづく)

| | コメント (0)

木リン・ゾオ・カバ列車① ~ 戦争の記憶 ~

本年84才の私 幼い頃の学歴?
極めて珍重である
何しろ幼稚園を落第した
小学校(国民学校)も
一年生を落第している
言い訳をすれば 3才の時に
百日咳をこじらせて かなりひどい
小児喘息を患っていた

小学校一年生では
1年間通算の出席日数が
20日間位だったそうだ
複数の医者から
「多分10才位迄の寿命だろう」とも
宣告されていたと言う

私が生まれたのは
隅田川浅草の対岸向島区寺島で
花柳界芸者町の隣接地だった
今から考えれば 芸者衆や
置屋さん相手の呉服屋商いには
最好適の立地だった

番頭さん(営業マン)3~4人を使って
商売繁盛だったらしいが
小児喘息の私には
反対側隣接地が小工場密集地帯
煤煙モクモク 大気汚染スモッグ
風下にあり最悪だった


外で遊ぶと直に喘息発作を起こす
家の中で“本”を読むのが
私の唯一の遊びだった

読み書き家庭教師?は
番頭サン爺やサン 呉服屋なのに
何故か当時 珍しい大学生の書生さんも
居たので万全だったが
遊び盛りに外で遊ばぬ私が
父には歯痒かったらしい

或る時 父が大声で私に言った
「ウチの中でホンばかり読んでるから
ゼンソクが起きる」
「オモテへ行って
着物を泥だらけにしてこい!!」 
 『ハァーイ』と私
店の前へ出て 道路で寝ころがり
一回転して 『タダイマー』と
帰って来たそうだ

番頭さん達全員 父への遠慮で下を向き
笑うに笑えずのワライダッタと
後年聞かされたカワイクないガキだったと
目下84才にして 反省しきりである

喘息発作の治療薬が無かった当時
唯一 喘息発作回避の方法が
転地療養だった
毎年 秋10月末になると
母と私と妹弟4人で 熱海に一冬滞在した
熱海駅の傍 線路わきの旅館だった
喘息病が急変した時に 即 列車に
乗れる場所が 旅館選びの
最大の理由だったらしい

― 大東亜戦争勃発昭和16年秋
   転地療養の私6才がスパイ容疑で
   憲兵隊に取調べられた ―


【続く】

| | コメント (0)

«沖縄県知事選挙 ~ 沖縄差別 ~