由紀さおり様 ~ FC東京 天皇杯優勝 J2リーグ優勝 2冠 ~

2012 平成24年元旦
おめでとうの朗報 !
ドカンドカンと朗砲二つ !!
私が年来 気を入れ応援の両所
ヤッタゼの快挙 ! だ

◎由紀さおり《毎日芸術賞受賞》 
◎FC東京 《天皇杯優勝》


~~~~『コイツァ初春(はる)から
縁起がイイワイ』~~~


2011 平成23年大晦日
風邪をこじらせ
紅白を見ないで寝ていたが
「除夜の鐘だょー」「おそばだょー」 と
起こされた

除夜の鐘でなく
由紀さおり&ピンク・マルティーニの
コラポレーション「1969」のサウンドが
流れていた

まさに 絶妙な心づかいと言うべきである

~~~~『去年今年(こぞことし)
つづりあわせし なさけかな』~~~

《由紀さおりさん》 明けて一昨年の秋
東京国際フォーラムでの
《1969由紀さおりコンサート》に出かけた

同行した<きものひらさわのスタッフ>が
言った

「舞台から客席降りた由紀さん
女神サマみたいに綺麗~」
その女神サマ そっとワタシに
手を振ってくれた

そして3日後 女神サマからワタシに
お便りが来た 

120105

葉書には
-(当夜絶賛の拍手を浴びた)
美空ひばりさんの唄を
もっと歌おうかな と書かれてあった

私はすぐさま
『美空ひばりを歌うのに反対です』と
由紀さんに手紙を出した
『由紀さん貴女は
昭和のエンターティナーの後追いは
不要です』
『由紀さん貴女は
平成のエンターティナーになれる人
目指す人です』と手紙に書いた

それにあらぬか“1969”に
HIBARIの歌は無かった
お姉様の安田祥子さんとともに20年
心を込めた 綺麗な日本語が
世界に認められた
嬉しい 本当に嬉しい
普段着の<綺麗な言葉>の日本語が
音楽に乗って 世界中を魅了した

2012新年だ 手のひらを見つめて見よう
私の 私達の手のひらの中
に希望という名の可能が有る

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追悼

小野さんあなたは 稀有な人でした
あなたの職場では交番のことを「ハコ」と
呼んでおります
そのハコから抜け出て 一段と一段と
階段を上り詰めて
警視庁科学捜査研究所所長として
定年退官をされました
多く様々な小野さんの職責に対しての
栄えある褒章に加え
この夏 晴れ晴れしく
紫授褒章を授章されました



「刻苦勉励」を 文字通りに
生真面目に生き抜いた
小野さんあなたを 私は
密かに尊敬しておりました
今や 忘れかけられ消え行きつつある
「言葉」ですが
明治の人々の指標に
ふたつのキーワードがありました
「刻苦勉励」と「立身出世」であります
この言葉は日本人のアイデンテイテイと
私は考えます
第二次世界大戦敗戦の
日本が混乱の中から起ち上がり
復興を成し遂げた私の父母の世代の
見事な心意気です
そしてそれは女手一つで
小野さんあなたを育てられた
あなたのお母様の「躾」と
同根であったとも考えます
今まさに時代の若者達の
無気力に生きる世相にあって
古き良きあなたの生き方は
指針ともなる筈であります
勝れたアスリートや優れたタレントは
今も「刻苦」し「勉励」し
明日の「立身」と 世に出る事を目標に
人生への夢を忘れずに
日々努力しているのですから



小野さんあなたは
鹿児島の高校を卒業して
警視庁警官を拝命し初任先が
東京都足立区の本木二丁目交番で
ありました
私どもひらさわ呉服店は 道路を隔て
その真向いにあります
紅顔少年の面影を残した小野巡査が
夜勤の交番の中で
あたかも《お地蔵様》のように
固く座り続けたままで
居眠りどころかかすかにイビキを
カイテイルようだと
我が家の女中さんが
笑って母に報告をしたものでした
夏になり 頬に蚊の刺されたままの
小野巡査の足元へ
母が女中さん言いつけて
蚊取り線香を置かせたことが
小野さんと私の母との
交流の切っ掛けになりました

Motogi1


懐かしく楽しい思い出です
当時 我が家は父を亡くして
私と六人の兄弟姉妹が
小学一年生の末弟から私迄
全員在学中でありました
店の開店時間帯は
皆それぞれが通学準備で慌しく
開店の手伝いをサボって
登校する私たちに代わり
制服制帽姿の小野巡査が
母や女中さんと一緒になり
店のガラス戸十二枚を
次々に 運んでいる様子が
ご近所皆さんの微笑ましい
エピソードとなりました
巡回に来た西新井暑の上司の方が
そのいきさつを
やや 詰問が半分の口調で
母に問い質したところ
母は
「交番のお巡りさんとは
思っておりませんのょ
前のお仕事場の若い衆さんに
手伝って頂いてますの」
と 言い放ったそうであります
上司の方は
「そうですか奥さん了解了解しました」
と言い敬礼をし
一件落着となったのだそうです
地域との連帯や交流という
生硬い思考からではなく
それは懐かしくも情味あふれた
下町の人と人との
お付き合いであったのだと思います
非番の折小野さんが
必ずのように私共へ顔を出して
時にお風呂へ入り
時に食事を一緒にして家族同様
談笑をされるようになりました
お正月非番の日は必ず我が家の
百人一首歌留多会に来られたのですが
小野さんは毎度毎度の四位でした
罰ゲームで歌を唄わされる羽目になり
曲目は決って吉永小百合橋幸夫
『いつでも夢を』が十八番でした
生真面目そのものの小野さんには
似つかわしくなく
唄い始めると 派手なゼスチャー
たっぷりなのにはその都度
みんなが笑い転げたものでした

Motogi2


西新井警察署の新人の中から
嘱望され 選ばれて
警察学校へ幾たびも
入学修学されたのがその頃です
その都度 母は小野さん宛てに
ドラ焼きやお饅頭を
宅急便の無い時代で 郵便小包で
送ったものでした
後年 都内各所の警察署署長を
歴任されましたが
新任の折小野さんは
必ず私一家を招待されました
そのある時 母が
「小野さんも立派に出世して」
と誉めると 母に向かって小野さんが
「出世だとすれば おばさんの
オマンジュウのお陰ですょ」
と言われました 
当時の中野警察学校では
広大な敷地の中から教練以外には
塀の中から一歩の外出も
許可されなかった時代だったのです
小野さんは 我が家の母から送られた
お饅頭やドラ焼きを全部同期生に分けて
若い友人と一緒に食べたと聞きました
後年小野さんが各署へ転任をすると
様々な所で様々な人から
「小野あの時の饅頭美味しかった」
とほのぼのとした回顧が
温かな励みになったものだと
しみじみ述懐されておりました



半世紀以上に亘る小野さんと私との
交流の軌跡の中にあつて
とりわけ 鮮烈に 私の心に刻まれている
出来事があります
平成一年交通事故被害により
私は頚椎にダメージを受けて
頚椎三ヶ所に腰の骨を移植する手術を
いたしました
生死もただならぬ回復の見込みも
暗然とした時 私の枕元で
小野さんが小さな声で
吉永小百合の 「いつでも夢を」を
唄ってくれたことを
今切なく溢れるように思い起こします



小野さんあなたは 吉永小百合
橋幸夫の歌謡曲にではなく
「いつでも夢を」のタイトルが
あなたの人生での信条であり
キーワードにしておられたのだと
私は確信しております
その後私は平成十七年頚椎再手術
一命を取り留めたものの
歩行にも手足にも障害が残り
難病となつて車椅子生活です
ただ 今の私のひたすらな想いと希いは
あなたと同じです
「生き生きと生きて 夢を見つづけること」であります
これから先は しばしの間と思いますが
私はザ・ネクスト
夢を忘れず夢を捨てぬ人生を
生きて行こうと心しております



小野さん あなたの大好きな
鹿児島のお母さんと
東京のお母さんが天国で
待ち受けているはずです
二人のお母さんに甘えてゆっくりと
静かにお休みください



平成二十三年十月
             平澤 建二

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オトミサンⅣ ~ 越路吹雪 ~

越路吹雪は 昭和のエンターテナー
No1である 誰がナント言おうが
ワタシの評価は 美○ひ○りを超え
『越路吹雪No1』が真っ当精確である

その《越路吹雪》《幻の公演ポスター》が
ワタシの寝室にある

かって
①きものひらさわ
②白馬御宿かやぶき茶屋
③白馬ペンションKEN
④神楽坂マンション
各寝室私の枕元に
越路吹雪サマが微笑んでいた

昭和50年頃 信州大町市で
中華料理店を始めた弟から聞かされた
ニュースに 私は気が動転した

「コシジ ブキサンがさぁ
町外れに別荘を持ってゝ」
『何々 !!』
「時々ウチの近所に買い物に来るんダ」
『ええーっ !!』

斯くも重大事件を軽々と!!
平然と語る神経は!!
ワガ弟ながら呆れた鈍感馬鹿である
私は気を静めて弟に提案した
『オマエ落ち着いて聞けョ』

『費用はイクラでも私が出す』
『至急 出前のチラシを作れ』
『チラシは越路サマ別荘に重点的に撒く』
『越路サマ出前注文は24時間体制で
OK!!』

而して首尾ヨク
越路別荘からの御注文直後
直ちに東京の私に急報
私は夜行列車で駆けつけ
私が出前の食器と代金頂きに
越路別荘に出向く

『ソコデ 越路吹雪サマとワタシの
出会いが生まれるノダ』
この素晴しき超名案を
愚弟はニヤニヤと黙殺
結実しなかった ― 愚弟デアル ―

昭和55年(1980年)越路吹雪逝去

平成十年頃 信州白馬で私が経営する
御宿かやぶき茶屋ライブに出演された
日本舞踊家Sさんから
ビックリ 驚天動地の話を聞かされた

亡くなられた越路吹雪《別荘》が
廻り回って Sさん知人が現在所有
売却希望との話だ 即決!
Sさんに宿泊延長と先方への連絡を
依頼した

2日後 私はSさんK君居候クン
総勢7人で《旧越路別荘》に出向いた
K君Sさんとも 私の越路狂!を
先刻承知! 買う気満々の出動だった


~K君Sさん私3人声を密めて相談
結論は「NO」だった
何よりも建物の外観内部ともに
越路吹雪の「匂い」「香り」が
皆無だったのだ

周辺別荘の雰囲気からの推測だが
恐らくは建売別荘を越路さんが
(義理買い)されたのではないか~?~
~意気込んだ分 落胆も大きかった

売主さんに断念を伝え帰りがけると
「沢山お土産を頂いた御礼に」と
《越路吹雪1981年リサイタル》
つまり逝去の翌年に予定の
公演ポスターを人数分頂く事になった
《幻の越路吹雪リサイタルポスターで
ある!》
そして玄関隣の倉庫を開いて下さった
絢爛たる舞台衣装がぎっしりだった
パリでニナリッチの衣装を
500万円買った
お財布音痴の越路好み
華麗な衣装揃い
― 『ホシイー』「ダーメッ」と
SさんK君に叱られた

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ゴモットモ《越路吹雪絢爛の舞台衣装》を
呉服屋のウインドウに飾れない 
ましてや寝室に飾ったらソレワ即
世間様の(^^♪のタネになる筈と
諦めたが笑いのタネは暴露された

かやぶき美術館創立の折に集まった
旧友達にバレタ
「ナニ考えテンダ」
「相変らず馬―鹿ヤッテンだ」
「ガキだネ」と
私の評価はガタガタだったが
トミさんはひとり「うーん」と唸っていた


数年後の事だ トミさんは人脈を駆使し
故郷岩手県釜石市に
深緑夏代 高英男 などの
大御所をはじめ シャンソン界の
歌手を網羅して
それぞれの舞台衣装を 一堂に
飾りつけた
《シャンソンおしゃれ館》を
立ち上げたのだった

「ぜひ一度 来てよ」と誘われたが
その頃から 徐々に私の体は麻痺が
進行しつつあった 

「来れば芸者揚げて 歓待すっから!」
『カラオケ芸者はゴメンだょ』
「ナンモナモ 弾いて唄えて踊れる芸者が
釜石にいる」
『婆さんだろ』

「アタリ 70過ぎだ」
軽口ジョークを別にして
ぜひトミさんの故郷へも
《シャンソンおしゃれ館》も訪ねたい
私の切望が果たせなかった 

再手術をして 車椅子生活になった私に
釜石は 遠く遠い異郷になったからだ

昨年暮 突然トミさんの訃報を聞かされた
ご遺族からだった
10月に亡くなられ 病に侵されたのが
2年近く前だったとも知らされた

「病気も訃報も ケンチャンに報せるな」と
トミさんは言い措いていたそうだ

3―11東北大震災

その数日後
〔釜石最後の芸者が被災した〕
新聞記事が掲載された
〔80歳引退披露目前 衣装も着物も
全て津波に奪われた〕とあった

私は動揺した
動悸を抑え新聞社に電話を入れた
匿名で取り敢えず普段着を送りたい
夏に浴衣を送りたい
秋に引退披露の訪問着を送りたいと
希望を告げた

記事の人がトミさんの言っていた
弾けて唄えて踊れる芸者その人との
確信と トミさんにつながる思わぬ縁が
痛切だった

人生は あざなえる縄の如きもの と
亡き祖母の口癖がしきりと思い起こされ
廻り合せの不思議と 帰らぬ日々への
憧憬が切なくもある

※後記
艶子ねえさんの衣装は
著名な団体からの贈呈が決定され
シャンソンオシャレ館は復興対策本部と
なっていると仄聞しています

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オトミサン Ⅲ ~ バー ルパン ~

昭和30年代 バー《ルパン》は
銀座で一番静かなバーだった
お客が満席になっていても である

当時ママは80才を超え
銀座のママの中の最高齢で
女優高峰秀子さんも常連の店だった

トミさんは 大阪日々新聞社の
東京支社長になった
それをきっかけに暫くぶりで
会う事になった

トミさんは 大の甘党で
バーが大の苦手だったが

私とI君が 静かな雰囲気
落ち着いて 久闊の語り合いには
最適と《ルパン》に誘い出した

I君その頃 絶好調の週刊誌
《平凡パンチ》編集部に在籍多忙を
極め(現マガジンハウス東銀座)
トミさんが(大阪日々新聞支社
銀座2丁目)なので《ルパン》は
落合うのに好都合の場所だった

カウンターに3人並び
酒豪のI君はオンザロック
トミさんもっぱらジュースで話が弾んだ

ママが私の着物をほめた事で
話題が羽織袴姿で登院の時の人
漫才師から参議院議員に転進の
時事漫才コロンビァトップ氏に話が及んだ

『そうそう そう言えば』
と私がトミさんから
強引な漫才コンビを持ちかけられた
昔話をするとI君は「ナンダょソレッ」と
吹き出した =山手線電車を 乗ったり
降りたり「漫才ヤロウヨ」と
エンエンと口説かれた話に=
I君はグラスをフルワセ
「ロックが水割りにナル」と笑い続けた

『ソノ時漫才やってりゃ ケンチャン
今頃ダイギシ先生かぁ』とI君の冗談に
トミさんはマジメ顔で言った
「代議士デナイ 総理への道ダッ」
周囲に気兼ねしつつ私もI君も哄笑した


昭和50年代
私は 冬の白馬が苦手の母に親孝行の
心算で 冬暖かな房総に
ホテルマンションを求めたが
トンだ大事件に巻込れた
ホテル乗っ取り事件!
黒幕は時の政商小佐野や
ハマコーとの噂だった

ホテル所有の土地利権がらみで
乗っ取りを策略されて
千葉のヤクザも介入してきた

対抗上私達被害関係者200余人が
弁護団五人を擁し
日本で初のリゾートの集団訴訟を
起こした 

そして何故かアレヨあれょで
私は代表委員座長に選出されたが
被害者は権利意識の薄い方々で
活動費用の大半と時間も
私自身の持出しだった
裁判長も何となく生活に関らぬ
小金持達の遊びのリゾート問題との
認識らしく ややもすると状勢は
私達が苦境に追い込まれつつあった

青年弁護士O先生が切々と
「平澤さんは 筋を通したい
その一念ですよね」と切り出された
そして「口巾たい言い方ですが」
「私の頭脳と平澤さんの弁舌で
道は拓けるはずです」と言われた

トミさんに『馬鹿やってんだぁ 俺はっ』と
その話をしたのが数日後
さらにその数日後だった
今で言うフリーライターから
《小湊リゾート事件》の
取材申し込みがあった

その記者からトミさんの紹介と聞かされた
そして2週間後《週刊宝石》の紙面に
大々的な記事
《小湊リゾート事件》が報じられ
テレビ放送も後追い
形勢は一挙に逆転挽回の
チャンスになった

紆余曲折を経て 和解金8千万で
妥結した 苦渋の闘い
人の心の表裏を知る日々の連続だった

『ほぼ完全勝利 ヨッテ 御礼ゴンジョウに
参上ツカマツリマス』と
私はトミさんに伝えた

《幻の銘酒》と世評名高い日本酒4本を
手土産に トミさんの新聞社へ退け時の
夕刻に訪ねた 

居残り社員が酒銘柄を見て
「オー」と寄って来たが
トミさん「帰れ帰れ!明日だ」と
全員を帰した

「アーァッ ケンちゃん一杯ヤッカ」
『えっ』トミさん大甘党で
お猪口一杯でひっくり返る男だ

「マボロシの酒で乾杯やっかゃ」
『ちょっと待って』
私は小走りに《銀座たち吉》へ行った

ぐい飲み2個を求め
箱不用と告げると 店員は
「○○先生の箱書きですが」と
怪訝そうだった

「乾杯ィ」ホラミイ言わぬ事ではない
トミさんは ぐい呑み一杯で
真っ赤になり 机に突っ伏した

「ミズーッ」と コップ一杯 水を飲んで
軽いイビキをカキダシタ

私はそっと席を離れ
トミさんのデスクに移動して座り
ひとり飲み続けた 

窓の外 銀座の灯かりが
煌めくように 心に沁みる 夜だった

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オトミサンⅡ

級友トミさんは 手紙も電話も
マメな人だったが
しばらくの間 手紙も電話も
連絡がなかった

―半世紀少し前の事だが―

当時 若者の情報ツールは
手紙の文通と赤電話の公衆電話
(都内10円で長話可)だけだった

その頃 大学生は数少ない存在で
黒い学生服を着る事は
若者たちの憧れでもあった 

黒い学生帽は
早稲田が四角な座布団型
慶応は丸い鍋型だった

黒い学帽に黒い詰襟の学生服を着た
《偽学生》が多数存在して
《天ぷら学生》と呼ばれていた 

中身は別々コロモだけ学生の洒落で
一方学資や生活に困り
一回800円で血液を売る苦学生がいた

《苦学生》《勤労学生》に向け
「学生援護会」が誕生「アルバイト」の
言葉がつかわれはじめた

《職業婦人》の言葉が一般的で
主婦の仕事は家庭での
《内職》だけだった

銀行振込のシステム無し
現金封筒も10万円以下のみに
限定された時代だった

春先の或る日
私はお得意様の職業婦人から
多額のお勘定を戴く事になり
会社へ昼休みに伺った

帰途 私は大金を鞄に入れて
やや緊張気味で
浜松町駅ホームを歩いていると
後ろから突然! 両肩を掴まれた!
びっくり仰天!
『ウオーッ』と 振り向くと
トミさんだった

『ビックリさせんなょォ』
「ケンチャンこそ大げさダァ~」
「奇遇だ コーヒーでも」と誘われたが
急ぐからダメと断った
そしてその晩は生憎と
亡父の友人で商売の指南役が
来る予定があるので
残念ながらと トミさんの来訪は断った

「ならサ 大事な急ぐ話がある」と
ホームのベンチに腰掛けた
(キグウでなく待伏せだった?のか)

トミさんの話は 突拍子も無く
笑う 驚く 何とも奇妙な展開になった

普段ほぼ標準語のトミさん
真剣になるとお国訛りになる
「あのサ 二人で漫才ヤラネカ」
『??』
『ヤダョドコノ宴会?』
「仕事ダ コレカラ職業にスルノサ」
『プフッ 冗談じゃない』
「トミケン誕生」
『エンタツアチャコかょやーだ やだ』
立上り電車に乗った私を追いかけて
トミさんも乗車した

電車内でもトミさんは 執拗かつ
懸命だった
「ケンチャン身長ナンボだ」
『160cm』
「俺はサ178」
「ケンチャン江戸弁 俺はサ
クニ訛りでやる」
つまり漫才コンビ トミケン?
最良との力説だが
ソモソモ私は漫才蔑視
漫才師ゴトキは格落芸と日頃思ってる
「漫才やろう」
ソレダケで不快だった

『ベランメエとズーズー弁の掛合いだけで
お金が稼げる程世の中甘くナイと思うょ』
と一蹴したが
トミさん意外な見識?をヒロウした

「漫才はサ 今ほとんど秋田実が
台本書いてる」
「ンダガ俺はサ」
「ケンちゃんに台本書かせる」
「ケンちゃん寝坊助だが朝起きしてもらう」
「朝7時NHKニュースと新聞サ読んで」
「台本書く それをサ昼に舞台に掛ける」

~~勝手に決めるなょとソッポをムイタが
思えばその着想は 後年ブレークし
一世を風靡したコロンビアトップライトの
時事漫才と同じだった

―浜松町駅から日暮里駅迄10駅区間を
乗っては降り 乗っては降り―
トミさんの漫才コンビ勧誘は
強烈に続いた

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オトミサン

彼の名を『トミさん』と私は呼び
他の級友達は「オトミ」と呼んでいた

私の亡母の名はトミ 母は親しい人に
「オトミサン」と呼ばれていた
そのほんのちょっとの符合を
トミさんは我が家へ訪れる都度
後年まで話題にしては喜んでいた

半世紀以上前 夏休中に
私の父が急逝した
葬儀の後日 何度か トミさんから
電話があった

「ガッコ止めんナ」
「(俺の)下宿サ遊びにコ(来い)」が
トミさん毎度のセリフだった 

私は 母と5人の弟妹女中さんも含め
暮し向きにも自分自身の将来にも
五里夢中の状況だった

気詰まりと重圧の日々
時には 仏壇の中をかき混ぜたい様な
暗澹とした気分を逃れるように
トミさんの誘いに乗る事にした

トミさんは岩手県釜石市から
上京下宿して 学生生活を送っていた

その頃 携帯は無い
煙草屋店頭の赤い電話機が
数少ない公衆電話だった 

トミさんの手紙の詳細な地図を手に
出掛けた 当時 国電を「省線」と
呼ぶ人もいた時代で
山手線が10円で一周出来た
国電大井町下車 駅前は
大小マチマチにライオン看板
(トタン看板)を掲げた商店が
雑然と空き無く立ち並び
戦後の残滓を色濃く残していた

表通りから路地を入ると
下町風情の玄関先に
空き缶を植木鉢代りに草花を置いた
仕舞家が続き
訪ね宛てた二階家の一階が
トミさんの下宿で トミさんは同郷の
友人A君との同居していた

同居の友人A君は
如何にも田舎出風の
朴訥な感じの良い青年だった

A君は挨拶もそこそこに飛び出して行き
程無くして 両手に氷アズキ二杯を
持ち帰って来た

「3ッは持テネか」
「ン~」
~~トミさんに
「遠慮スンナ」と言われ
氷アズキは 私が一杯を食べた

氷アズキを食べ終わると二人は
突然 私に「風呂へ入れ」と言い出した

『早く帰らなければぁ』と生返事の私に
「風呂」「フロ」と
やや無理強いの二人に負けて
風呂場へ行くと 存外広い流し場で
木の風呂桶も二人でゆったり入れる位
大きかった

トミさんが
「ケンチャーン 牛乳瓶サワンナー」と
大声で怒鳴った 足元の金タライ
(洗面器)に 浅く水が張られ
牛乳瓶が5~6本逆さまに立ててあった

奇異に思ったがそのまま風呂に浸かると
ややしばし 上半身裸のトミさんと友人が
二人でニヤニヤしながら
風呂場に入って来た

「見てレー」とトミさん
A君が金タライを風呂に浮かべ
片手で牛乳瓶を湯の中に突っ込んだ
湯の中で瓶をやや傾けると
ボコボコボコと泡が浮き上って来た

その浮き上がった泡に
トミさんがマッチで火を付けると
ボッと青白い炎に燃え上がった

『ナッ何だッ』
「ヘだ」
『エーッ』
「エで無い 屁ダッ」
「オナラだっつーの」

牛乳瓶のガスは 次々点火されて
青白い炎と赤黄色の炎に燃え上がった
笑った 笑った 私は 吹き出して笑った
「可笑しいぃ か ケンチャン」とトミさん

さらにトミさんの後講釈
「赤い火が俺 青い火がAだ」
「屁ワサ 出すツモリのネェ時も
デルベシ」
「ンだが 出シテェ時に出ネ」
「瓶ツメの屁っ集めるのに」
「苦労だったぁ」
「シリにビンアテテ」

私は湯船を叩いて笑った
トミさんとA君
「笑ったぁ なぁ ケンチャンが」と
肯き合った

腹がヨジレ 涙の出るほど
笑い続けた私は やがて 何度も何度も
湯船のお湯を顔に掛けた

笑いのではない
胸突き上げる むせぶような涙を
トミさんに見せたくなかったからだ

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きものアロハ ゆかたアロハ

秋暑し この夏 ひらさわの
「ゆかたアロハ」が大人気だった

9年前「きものアロハ」とともに
売り出した〔きものひらさわオリジナル〕の
商品である

『千客万来』は少々オーバーだが
日々大賑わいだった

二年前TV「ちい散歩」で
ユニークなシャツ「ゆかたアロハ」と
紹介絶賛され大評判になった

今夏5/27に「ちい散歩」再放送が
大人気の後押しをしてくれた

思いがけぬ遠来のお客様大勢さんが
ご来店で ワタシは内心
『全国区ダァ』と!(^^)!だった


〔某日〕 昼過ぎ
「社長っ」と起こされた
ヨッコラショと介護ベットから
店へゴ出勤 約7mの距離である
ワタシにとってハンパじゃない走行距離
コルセットをする間もなく店に出た

店に出たトタン
「まぁ お元気になられたんですね」と
お客様から先に
親しげにお声をかけられた

中年のご夫婦とご年配のご婦人
三人様である ドコのドナタかを
思い出せない

ワタシは目下 脳が液状化である
ノウミソをフリシボルが
お名前を思い出せない

― 止むを得ず ジャブを繰り出した ―

『お三人様お揃いで』
『お車ですか』
『おお奥さまも お元気そうで』
『本日はワザワザのお越しで』
etc~etc

誘導のジャブ質問は
何れも空振りだった

「今日は新宿伊勢丹から参りましたの」『??伊勢丹とひらさわを掛持ち
コウエイデゴザイマス』

事情が見えて来た

~石川県能登のお寺さん
寺内をオープンカフェにご活躍中
伊勢丹出店の徒次ひらさわへだった~

二年前「ちい散歩」では
私がコルセット着装
それから2年過ぎ
今はコルセット不要の健康体に
なったのかと 有り難いご認識の
ご挨拶だったのである

K4673


〔某日〕
群馬県高崎から
「母の遺言で ゆかたアロハを
買いに来ました」 と
凄い事をおっしゃるお客様

母上様が二年前「ちい散歩」を観て
「こんなアロハあなたに似合いそう」と
メモを残されたいた

今年母上様が亡くなられ喪中なので
大の祭好きだが ハッピを着られない

さりながら 例年子供神輿の世話役も
欠かせないので
アロハ着用を思いついたとの次第だった

後日アロハ姿のお写真が送られて来て
「ミナサン大勢に ホメラレマシタ!」と
お電話も頂いた

「飲み屋の女将にススメラレテ」
茨城龍ヶ崎市から猛暑の中ご来店の方
「カァチャンも公認だから!」と
マジメなカオでオッシャッテいた

長野飯田市から和太鼓連の方
絞り浴衣のアロハ ダボシャツを
来た甲斐あったとご満足下さった

千葉成田市 神奈川小田原市
栃木大田原市
わざわざご遠路のお出かけに
胸熱い思いがあったが

都内近隣のお客様とも
出来うる限り お話お喋りを心がけて
商いをさせて頂いた

「一期一会」
商い冥利とでも言うべき日々だった


半世紀前亡くなった父が生前
商品の値札を付けながら よく言っていた

「建二 世の中には
値札では付けきれない ものの値打ちが
沢山あるんだょ」 と

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5,900,000,000,000円

買わない宝くじは 当らない!
それは百も承知をしているが
それでも時折り
宝くじが 当った〔ら〕と思うことがある

「金がカタキの世の中」である
金さえあれば! あったなら!
願いが 叶うこともある

ワタシの口座に 振り込み通知が来た
公的な支給決定通知書が届いた
見たら! 金額が である
\5,990,000,000,000と記載されている

マルだかゼロだか 知らないが
ナニシロ13桁の金額は
何度数えても 間違いは無い!
つまりは 一金5兆9千9百億円也が
8月16日に私の口座への
振込み通知書なのである

差出人は 東京都の医療広域連合会長
西川太一郎氏(ワガ足立区の隣
荒川区の区長)である

アヤシイ人物カラデハナイ!
医療高額療養費
支給決定通知書である

早速 獲らぬ狸 気前良く 店のNさんに
イクラ欲しいかを聞いた

「えーっ 社長」と言いながら
「1億」と言った 

Yさんは
「あーらスイマセン じゃぁ2億」ダト
年の功と言うべきか

ホームページ担当のタケウチ君は
「1億」だった ジョーシキ人は1億ラシイ

困ったヒトが現れた
マッサージのI先生である
『平素のオ礼に ゴ希望額を差上げる』と
通知書をお見せしたら
「ヒラサワサン これってマチガイでしょ」
「誤りでしょ」と言われるのだ

『ムフフ ふぅ』と私は答えた

「絶対間違いですょ ねぇ そうでしょ」と
迫られた

『フッフゥフッ』が 私の答えなのだが
これって コレデ よろしいでしょ
如何なモノでしょ



二日後 若い者Tがやって来た
同じく文書を見せたら
「欲しいッスネ 3万円!とか100億円」と
言った

ナンとも 現実味を帯びた額と
かけ離れて 空想的な額だ
『ナンダソレ』 と言ったら

「読んだスッか 朝刊」と
カバンの中から取り出したのが
8月18日の毎日新聞だった

一面4段抜きの〔就学支援金底突く〕の
見出し記事が ここ二日間
彼の胸にあるわだかまりだった

実は私も気になる記事だった
補正予算113億の内
残額が2%の報道だった

100億円を車に積んで
被災地に持って行きたのだそうだ
3万円はガソリン代だそうだ

― 五月連休にボランティァで
見詰めた子供達の 哀しげな眼差しが
今も忘れられないそうだ ―

背を押されて新聞の読者欄に
『金なら 有る』と~
私は初めての投書をした

大震災義援金に集まった2800億が有る
半年近く経過した現在2000億余が
残されて有る

人々は 江戸っ子と同じ
「先の百より 今五十」との思いで
寄付をした義援金が使われずに有る

使って始めて義援金だ
それを無能にも金庫の中に眠らせている
日本赤十字や共同募金会は
形を変えた「守銭奴だ」と書いたのだが~
如何だろう

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